過酷なスケジュールでダウンした藤圭子

藤圭子はデビュー翌年になると人気に火がつき、公演のスケジュールが過密化していきます。ワンマン・ショーでは1回で20数曲を歌うステージを1日に3回行い、それを1〜2ヶ月連続で公演するという過酷なものでした。肉体的な疲労が蓄積するうえに喉を痛め、かすれ声になってしまうこともありました。1970年6月発行の週刊平凡が伝えています。

「死ぬまで歌います!」
5月24日、川崎東映のワンマン・ショーに出演中、楽屋で倒れた藤圭子の悲壮なカスレ声。”謡人結節”(肥厚性声帯炎)という歌手独特の病気にかかりながら、この2ヶ月間がんばってきた彼女だが、積み重なる疲労には勝てなかった。しかし、周囲の強固な入院勧告にもかかわらず、楽屋で応急手当を受けただけで、この日も3回のステージをつとめ上げるというド根性ぶり。売れっ子の宿命といってしまえば、それまでだが、なんとか自重して欲しいものである。
 

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1970年5月の川崎東映のワンマン・ショーでは何とかやり遂げてその後に影響が出ることはありませんでしたが、1970年10月の浅草国際劇場でのワンマン・ショーはそうではありませんでした。1970年10月発行の週刊明星から引用します。

9月20日、浅草国際劇場の千秋楽、3回目のステージが終わって幕が降りたとたん、藤圭子はその場にヘナヘナっとくず折れ、オイオイ声をあげて泣き出した。客席の前の方にいた人たちには、彼女の泣き声が聞こえたはずだ。

関係者たちがあわてて舞台へかけ上がり、「よかった、よかった、大成功だよ」と、慰めたり、励ましたりするのだが、倒れたままの彼女は泣き止まない。これはただごとならぬと彼女を抱えあげて楽屋へかつぎ込み、注射をするやら、痛めたノドにシップをするやら……。そのまま彼女は、21日、22日と、いっさいの仕事を休んで寝込んでしまった。

「ほんとはもっと休ませなくちゃあいけないんだが……」と、公演中、つきっきりで彼女の健康管理にあたっていた村上ドクターがいう。

「仕事の事情が許さないというので、どうしようもない。気力とバイタリティだけに望みを託すような状態なんですけどね」

国際劇場の7日間を乗り切ったこと自体、”気力とバイタリティ”以外のなにものでもなかった。体調としては最低の状態で公演にのぞむまわりあわせになってしまったのだ。

初日のギリギリまで、スケジュールがびっしりつまっていた。しかも、前日の13日は盛岡公演。夜行で東京に帰り、そのまま国際劇場に入って、1回目の幕を開けるはずだったのだが、さすがに初日だけは1回目を抜くことになった。それも、休養のためではない。藤圭子自身が、「まだ稽古が十分できていないのに幕をあけては、お客さんに申しわけない」といって、その時間を通し稽古にあてたためだ。

こうして2回目から初日の幕が開いたが、関係者にとっても、本人にとっても、まさに薄氷を踏む思いの7日間だった。

藤圭子の場合、もともと低血圧症で、体質的に疲れやすい。その疲労は、すぐノドに来る。肥厚性声帯炎というやつで、いわば、ステレオであるべき声帯がモノラルになってしまう。その体調、そのノドで、激しい立ち回りをやり、1回に28曲という重労働を1日3回繰り返すのだから、たまったものではない。

ステージとステージの間に映画がはさまるのが、せめてもの救い。フラフラと足元もあやしく楽屋にたどり着くと、ウガイをすませるやいなや、バタンと倒れてしまう。村上ドクターが、飛びつくようにして注射を打ち、ノドにシップを巻く。ドクター婦人も、食欲のまったくない藤圭子のために、オジヤを煮たりして、栄養面から体力維持をはかる。

幕間の藤圭子は、囁くような声で、とぎれとぎれに言った。

「私のために、こんなにたくさんのお客さんがきてくださって、とってもうれしい。それだけにちゃんとした体の状態で舞台をつとめたかったんだけど、それだけが申しわけなくて……」

こういう状態で迎えた千秋楽だっただけに、最後の幕が降りたとたん、うれしさやら、くやしさやら、安心感やらで、万感胸に迫り、声を出して泣き出してしまったわけだ。

藤圭子は自筆の自叙伝を1971年2月から4回に渡って月刊平凡に連載しています。1971年5月号に掲載された自叙伝から、国際劇場に関する部分を引用します。

私がとうとう過労で倒れてしまったのは去年の9月20日、浅草・国際劇場で行われた『藤圭子ショー』の最終日。フィナーレの直後でした。13日の盛岡公演をおえて夜行で帰り、その足で翌14日、初日の国際劇場へはいりました。

生来の低血圧に大腸炎をおこし、ノドがはれる病気に過労が重なっていた私は、それでも村上先生(医師)に強心剤や鎮静剤の注射をうってもらって舞台を続けていました。

1週間の舞台をどうにかつとめ、らく日(最終日)のさいごの曲『命預けます』をうたいおわったとき、拍手のなかを、どんちょうが静かに降りてくるのが見えました。私の目は涙でかすみ、手を振りながら客席がしだいにボウーとにじんでいきました。

「圭子ちゃん……」

目の前に、涙をポロポロこぼして、私のからだを支えてくれる畠山みどりさんの顔が見えました。

〈私はまだ倒れてはいけないのだ。私にはもうひとつ、やることがあったはずだわ。母の目を手術してやるのだ。それができなかったら、歌手になった意味がない……〉

そうおもううち、畠山さんの顔もみえなくなり、私はその場へすわりこんで気を失っていきました。

9月21日から3日間、すべての仕事ができなくなり、私は病床にふさなければなりませんでした。そのために関係者の方々やファンに、どれほど大きな迷惑をかけてしまったか、いま考えても身がちぢんでしまいます。

ここでも母親が登場しています。この自叙伝には他の部分も含めて母親のことが何度も出てきます。デビューまもない頃の藤圭子が歌を歌う最も大きな原動力は母親の目を治すことにあったことが分かります。
 

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