食うや食わずの藤圭子が林家三平とすごした意外な過去

石坂まさをは作詞家時代の初期に初代林家三平の曲を作詞したことがあり、その縁でデビュー前の藤圭子は林家三平の家へたびたび通うようになります。1970年7月発行の週間明星がそのことを取り上げていますので抜粋して引用します。

おととしの春、藤圭子を発掘したときも、沢ノ井氏は彼女をまっ先に三平師匠のところへ連れて行った。当時、彼女はまだ両親といっしょに日暮里のアパートに住んで、流しをやっていた。日暮里から三平師匠の住む根岸は目と鼻の先。それから1日おきくらいに遊びにいくようになる。もちろん師匠は仕事に出ていてほとんど留守だが香葉子夫人を始め、一家の人たちから「純ちゃん、純ちゃん」とかわいがられた。
「あのとおりの美人なのに、ちっともそれを鼻にかけるようなところがなくて、気持ちのいい子でした」と香葉子さんはいう。
「お手伝いさんが編み物などをしていると、じっと見ていて ”こんど教えて下さいね” と頼んだりしていましたけど、やっぱりああいう境遇で、女の子らしい手仕事を覚える暇がなくて、憧れていたんでしょうね」

記事ではおととしの春に石坂まさをが藤圭子と知り合ったことになっていますが、そうすると1968年の春になります。一般には二人が知り合ったのは1968年の秋ということになっており、食い違っています。単なる間違いでしょうか。

そのうち、今までの家をこわして新築することになり、おととしの12月15日に棟上式が行われた。
「そのときの余興に、純子ちゃんを呼んで歌ってもらったんです。初めは2〜3曲のつもりだったのが、棟梁たちにひどく受けちゃいましてね。アンコールにつぐアンコールで、とうとう17曲ぐらい、ぶっつづけに歌ってもらっちゃった。たまたまひどく底冷えのする日で、途中からみぞれが雪に変わったんだけど、その日が棟上式だから屋根もなんにもない。髪の毛までびしょぬれになって、1時間あまり一生懸命歌っている純子ちゃんを見て、ああ、この根性なら必ずものになると思いましたよ。もう一つ感心したのは、終わってご祝儀をあげたら、お礼にもう1曲歌わせてもらいますと言ったこと。芸人はこのサービス精神がなくちゃいけません」

それからは、誕生パーティや新築祝いなど、三平師匠の家で何かあるごとに、彼女が呼ばれていって歌うのが恒例になった。

あるソースでは藤圭子は林家三平の家に住込みで暮らしたとしているものがありますが、この記事によればそうした事実はなかったようです。また香葉子夫人は昨年暮れに放映された藤圭子のドキュメンタリー番組で、当初藤圭子の一家はガード下で暮らしていたと話していますが、おそらくそれは記憶違いだと思われます。

同じ頃、藤圭子は、初めてテレビに出演した。終わって、会場の東京タワーから、まっすぐ根岸の三平宅へ。
「私としては、そのときのことが忘れられないんです」
と香葉子夫人がいう。
「純ちゃんがテレビに出るということは、その前から聞いていましたから、ビデオレコーダーに取っておいて、さっそく見せてあげました。驚いたことに、純子ちゃんは何時間たってもその前を離れない。何回も何回も繰り返しかけて、マイクの持ち方がどう、口の動かし方がどうと、こまかく研究しているんです。なんて熱心な子だろうと、そのとき改めて感心しました。

私の方から ”もういいでしょ、それより早くお母さんに報告していらっしゃい” と言うと、 ”おかみさん、お金がこれしかないんです” と言って、ガマグチをさかさまにしたら、転がりでたのが10円銅貨3つ。純子ちゃんのしぐさも可愛かったけど、これがレコードの吹込みもすませ、テレビにも出てきた子なのかしらと思って、いじらしくなりました。

直立不動の姿勢で凄みを利かせた歌唱を行っていても、どんなふうに見えているのかはとても気になっていたようです。このときのテレビ出演は、記事によれば1969年11月に行われた新宿25時間キャンペーンの頃といいます。当時はまだ月給も少なく、デビュー当初の藤圭子の困窮ぶりがうかがえます。