50年ぶりの藤圭子 歌っていれば … 五木寛之

週刊新潮に『50年ぶりの藤圭子』というタイトルで五木寛之が記事を書いています。1970年に初めて彼女の歌を聴いたときの衝撃を書いた後、藤圭子が五木寛之が作詞した『旅の終わりに』という曲をカバーしていることを知り、早速その歌を聴いたことが書かれています。同誌から抜粋して引用します。


先ごろ、ある人から、

「藤圭子の『旅の終わりに』は、あれはいいですねえ。抜群にいいです」

と言われてびっくりした。

「え、それなに? ぼくはぜんぜん知らないけど」
「あるんですよ。ご存じなかったんですか」

『旅の終わりに』というのは私が若い頃に詞を書いたコテコテの歌謡曲である。冠二郎さんが歌って、いい味をだしていた。その後いろんな歌手がカバーしているが、藤圭子が歌っているとは知らなかったのだ。

 (中略)

早速、聴いてみると、50年前の記憶が不意によみがえってきた。

『旅の終わりに』を歌う藤圭子の声には、デビュー当時の凝縮した怨念はない。淡々と歌っていながら、歌手としての天与の才能が流露している。すでに薄幸の少女歌手ではなく、余裕を持って歌と対峙している自信を感じさせるところがあった。

〈(前略)歌い続けることによって自分に取り憑いたデモーニッシュな才能を発散し続けていったら、彼女は自分を救えたのではないか〉

と福寛美氏(『歌とシャーマン』の著者)は書いている。

今度のミュージックBOXの中に収められた『旅の終わり』を聴きながら、私もそう思った。


歌い続けていたら死ぬことはなかっただろうと五木寛之は書いています。しかし歌い続けるということは、藤圭子がそれまでの芸能活動で関わってきた人間関係が再び活発化するということもであります。

藤圭子は、その芸能生活の中で営業を行う際に、全国有数の暴力団組長とも親しい関係を作っていたと考えられます。暴力団幹部との折衝には、事務所の専務だった石坂まさをがあたったのでしょう。

藤圭子が歌手活動を行うということは、全国の有力暴力団ともつながりを持つことになるということを意味します。すでに芸能人と暴力団との関係に批判が高まっていたとしてもです。暴力団が藤圭子を足がかりにして、莫大な金額を稼ぐ宇多田ヒカルの利権に介入したいと考えていたとしても不思議ではありません。そうなれば過去に営業でお世話になった人の要求を無碍に断ることは難しくなります。

藤圭子自身は宇多田ヒカルのデビューに連れて、自分もポップス調の新しいスタイルでのデビューを切望していたようです。ですがそのことで宇多田ヒカルのスキャンダルになることを避けるために、周囲からの説得を受け入れて歌手活動の再開を断念したと思われます。

歌手として再起する道を絶たれた藤圭子は、糸の切れた凧のように迷走をはじめます。宇多田ヒカルのプロデュース方針などをめぐって照實氏などとたびたび衝突を繰り返すようになりました。

1997年5月の週刊読売で藤圭子は、曲を作るプロデューサーとしてもやっていきたいと話しています。歌えなくなった藤圭子は宇多田ヒカルのプロデュースを行いたかったはずです。ですがその道も照實氏に独占されてしまったようです。

不可能なことではありましたが、私も藤圭子が歌を歌えていれば、あるいは、ヒカルのプロデュースに部分的にでも関わることができていれば、あのような悲劇的な結果にはならなかったと思います。