藤圭子の思想 松田政男

藤圭子という存在に注目すべき評論を行っている記事がありましたので紹介します。タイトルは『藤圭子の思想』、著者は政治運動家で映画評論家の松田政男。1970年8月発行のサンデー毎日から掲載します。


演歌、艶歌、怨歌ーーーどう表記してみても、エンカはエンカである。ただし、援歌とだけはどうしても書きたくないのだが、ともかく、エンカについて、ふつう流布されている誤解をひとつだけ正しておきたいと思う。

エンカが私達の暗い心情の奥底にひそむ、ある名づけようもない感性を引き出してくる一種の浄化作用を持っていることは、私たちのしばしば経験するところである。藤圭子のエンカを聞くとき、私たちはまさに同時に、私たちの中の日本人としての血が潮騒にも似たざわめきをあげてかすかにゆらぎだすのを、どうしようもなく聞き取ってしまうのだ。つまり、藤圭子という〈外なるエンカ〉に私たちの〈うちなるエンカ〉が励起され、そして共鳴するのである。藤圭子とは、この世紀末におけるたぐいまれなる巫女の別名なのだ。

私たちは、しからば、私たちにおける〈内なるエンカ〉の目覚めをもって喪われて久しい私たちの〈ふるさと〉を遥かに想起し、共生感に浸り込もうとしているのであろうか。アスファルト・ジャングルの超近代のなかで、忘却のかなたに押しやられてしまった土着の香りを、私たちは藤圭子のエンカを聞く時に、ふと懐旧するのであろうか。私は、通常の理解とは異なって、決してそうではないと考える。なぜか。土着の権化ともいうべき東北地方の一隅、岩手県一関に生まれ、北海道旭川で育った藤圭子の流転の前半生が、逆説的に私の考え方を証明している。〈ふるさと〉は恋しからずや? と問うたある週刊誌のインタビューに対して、藤圭子はさりげなく答えている。

〈帰ってみたいとも思わないわ。人間て、どこに住んでもおんなじだし、みんなそれぞれ、生きて行くんだし…〉

エンカとは、決して、望郷の歌、故郷を恋うる歌ではない。それは流亡の歌、故郷を喪失したものたちの歌なのだ。そして、私たちが外なるエンカと内なるエンカの二重構造がかもしだす妙なる音域のなかにわれとわが身をたゆたわせる時、その時、私たちは不可視の〈ふるさと〉をありうべからざるコミュニティーを垣間みることができるかもしれないのだ。藤圭子の思想とは、ハイマート・ロス(故郷喪失)の思想である。