浪曲師の父母との巡業の日々

幼少の頃の藤圭子について、1970年11月25日発行の女性セブンから抜粋して引用します。

♪ やるぞみておれ 口には出さず

宙をにらみつけるようにして、純子はうたいつづけた。村祭りの神社の境内には、娯楽に飢えている近在のひとたちが集まり、満員だったが、それでも純子は、恥ずかしさを感じなかった。

「私がうたわなけりゃ、お父ちゃんとお母ちゃんが困るんだ…」

そんな思いだけが、純子の心を占めていたのだ。

「もう浪花節なんかいらないよ。若い子が歌でもやるんなら別だけんども…」

と、父母を冷たく突き放した興行師に、純子は思わずすがるようにいったのだ。

「オジちゃん、あたし、うたえるヨ! うたわせて!」

ほおをひきつらせるようにして歌う純子に、客席から声が飛んだ。

「ねえちゃん、うめえぞ!」

「しっかりやれや。三条純子よお!」

三条純子ーーーそれは小学校4年生にして、阿部純子、のちの藤圭子に、はじめてつけられた芸名であった。

純子はこうして両親を助けるために舞台に立ったのだが、それがはからずも、プロ歌手として小さな第一歩を踏み出したことになったのだ。

「いやあ、いがった、いがった。また来てくれや。この子もいっしょなら、あんただちも、いつでも舞台に出してやっから…」

純子の初舞台のあと、喜んでいう興行師に、両親は複雑な表情でうなずいていた」

昭和36年秋、阿部純子10歳のときである。

貧困ゆえの屈辱の日々

旭川市の郊外、神楽山麓の村の秋祭りでデビューし、それからしばしば、両親とともにうたうようになったというものの、阿部純子の扱いはあくまで ”余興” であり、出演料はなかった。そのほうが興行師も助かるからなのだが、両親にしても、純子が出たほうが、出演料はなくても、客がチリ紙に包んで投げる ”お花” が、純子だけで、ときには3000円にも及ぶことがあったのだ。

「純子、すまないね」

母の澄子はよくそういったが、そのたびに純子は首を振った。

「ううん、私、みんなの前で歌うのって楽しいわ」

それはあるいは、純子の強がりであったのだろうか。

父の壮は、浪曲の仕事のないときは、左官をやって収入を求めていたが、ずるい工事主が金を払わないことも少なくなかった。それはたちまち家計に大きく響いた。

そんなとき、純子たちきょうだいは、工事主の家に出かけて行き、門をドンドンたたいて叫ぶ。

「お金を払え! お金を払え!」

また、父について、パチンコ屋に行くときには、店内を走り回って、落ちている玉をひろい集めた。とりかえる景品は、即席ラーメンやパンであった。

貧困が恥ずかしさとは無縁の生活を強いていたのである。

純子は最初、大有小学校にはいったが、5年生になったとき、学区変更で大町小学校に移った。しかし、その年の7月には、早くも神居小学校に移らねばならなかった。

父が市内に1軒の家を建てたのだ。

いつまでもアパート暮らしでは、と思ったからなのだが、といっても正式に大工に頼める道理もなく、知り合いに頭を下げて回り、古材を自分でリヤカーで運び、土をこね、釘を打ったのだ。

純子も慣れない手つきで、けんめいに手伝ったものだった。

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中学3年の阿部純子

いくらか、ほんのいくらか、貧しさのどん底からはいあがった時期であったのだろう。それに安心したのか神居中学校にはいってからの純子は、成績をどんどん上げていった。いくつかの4を残し、成績表はほとんど5になった。

つねにクラスの副委員長に選ばれていた。中学2年のときには、校内の弁論大会で優勝し、神居中学校の代表として、札幌の大会まで出場した。しかし、ふだんは無口でおとなしい生徒であった。

そんな純子に、父の壮は将来医者になってほしい、と思っていた。

しかし、当の純子は中学を出たら店員になろうと考えていた。医者になるには、高校にも大学にも行かねばならない。進学ということは、純子にとって、まるで考えたこともない、ちがう世界のことであった。

せめて旅から旅の毎日でなく、ひとところに落ち着いて働きたい、それには、お店をもつのが一番いい。その店を、洋品店や化粧店のようなきれいな店に想像することが、純子のわずかな少女らしさだった。

神居中学3年生のとき、副委員長の純子は、給食当番はエプロンをかけるように提案し、決定した。ところが、当の純子が当番のとき、エプロンをしなかった。

「自分でいいだして、ひどいじゃないの」

他の生徒になじられ、純子はいい返すこともなく、ただくちびるを噛んでうなだれるばかりだった。エプロンを買うことができなかったからである。

純子が両親といっしょに村祭りなどの舞台でうたっていることを、最初に知ったのは神居中学校の堤尚美先生だった。

純子の病気欠席があまりにも多いのに不審を抱いた堤先生が、ある日、純子を職員室に招いて詰問し、純子ははじめて、「みんなにいわんでください」といって、歌をうたっていることを告げた。

「そんなことをしてると、高校に行けなくなるぞ」

すると純子は、悪びれたようすもなく、

「いいんです。どうせ高校に行くつもりはありませんから」

「しかし、阿部、きみの成績でもったいないじゃないか。特待生という制度もあるんだから…」

「先生、私の家は、私がうたっていないと、生活できないんです。許可してください」

困りはてた堤先生は、教頭に相談した。教頭は磊落なひとだった。

「堤くん、いいじゃないか。あの子がやがて神居中学校の名をあげるかもしれんじゃないか。やらせてやろうじゃないか」

純子が歌をうたうことは、こうして事実上、黙認されたのである。

仕事は原則として土曜日と日曜日だった。土曜日、学校から帰ると、純子はセーターに木綿のスカートといった私服に着替え、バスと列車を乗りついで、両親が出演している村の舞台に向かうのだ。そして中学生阿部純子は、田舎まわりの歌手、三条純子に変身するのである。ときには、遠い炭鉱町などに行き、1週間も学校を休まねばならないこともあった。そんなとき、純子の夜汽車に揺られる横顔には、さびしげな陰りが浮かぶのであった。

 (後略)