ニューヨークで沢木耕太郎を待っていた藤圭子

アサヒ芸能 2013年10月31日号から抜粋して引用します。話している内容の時期は1980年の秋頃と思われます。


「私が『なぜ、ニューヨークに来たの?』と彼女に尋ねると、『実は、沢木耕太郎を待っています』と、答えたんです」

本誌の直撃取材に、こう当時を振り返るのは、ライターのマコこと田家正子さん。正子さんがいう「彼女」とは、去る8月22日に西新宿の自宅マンション13階から飛び降り自殺した藤圭子(享年62)のことだ。

 (中略)

正子さんが初めて藤に会ったのは、ニューヨークのカフェでお茶を飲んでいるときだった。

「日本人らしい女性が前を通り過ぎたと思ったら、すぐに戻ってきて「日本人ですか?」と聞かれました。その時は気づかなかったのですが、それが藤圭子でした。彼女に「アパートを探している」と相談され、一緒に探し、レキシントン・アベニューで、新築のアパートを見つけました。

その後、ある事情から、2人で探したそのアパートの同じ部屋で3ヶ月後に帰国するまでの間、藤と同居することになったという。

 (中略)

藤はニューヨークの生活の中で、大切に保管しているものがあった。

「沢木さんが彼女について書いた、300枚くらいのインタビュー原稿を大事に持っていたのを覚えています。沢木さんは当時連載していた新聞の連載が終わったら『コロンビア大学のジャーナリズム科に通う予定だった』そうで、このアパートで一緒に暮らすために待ち続けていたようです」(正子さん)

しかし、その思いはむなしく、沢木氏が ”愛の巣” を訪れることはなかった。


2000年になって藤圭子は、沢木耕太郎から裏切られた時の状況を ”人生のどん底” と述べています。歌手を引退してニューヨークに移り、二人で暮らす夢の実現に希望を膨らませていた藤圭子にとって、沢木耕太郎の裏切りはよほど強いダメージだったものと思われます。このことで藤圭子は精神的に不安定になります。藤圭子の精神の病の発症はこの時点かもしれません。

川田正子は友人を呼んで騒ぎますが、その中に宇多田照實氏がいました。照實氏は初めて会った藤圭子の印象を、感情が不安定で類まれな気まぐれな人と形容しています。

もし藤圭子が存命であれば、沢木を信じて何でも話したインタビュー本を、その信頼を裏切った沢木耕太郎が発表することなど絶対に許さなかったことでしょう。