なぜ藤圭子は境界性パーソナリティ障害を患ったのか

前回の記事 で、藤圭子は境界性パーソナリティ障害だったのではないかと書きました。ではなぜ藤圭子は境界性パーソナリティ障害を患うことになったのでしょう。今回はそれについて書くことにします。

境界性パーソナリティ障害の原因

境界性パーソナリティ障害となる原因には、他のパーソナリティ障害と同じように遺伝要因と環境要因の双方があると考えられています。

境界性パーソナリティ障害の患者には両親のうちのどちらか、または両方が精神的に問題のあることが多い傾向があるとされています。遺伝要因を最も直接的に調べる方法には双生児研究があります。双生児には遺伝的に同一な一卵性と、遺伝的には通常の兄弟と同じ程度に異なっている二卵性があります。その違いをうまく利用するのです。

ある研究では、異なる環境で育った7組の一卵性双生児と、同じ環境で育った18組の二卵性双生児について、境界性パーソナリティ障害の発症の有無を調べたところ、境界性パーソナリティ障害が両方の子供に認められたケースは前者では1例もありませんでしたが、後者では2組あったといいます。この研究では、遺伝より環境のほうが重要であることを示しています。

環境要因としては、おもに幼少期にどのような養育環境に置かれていたかが焦点となります。多くの研究の結果、境界性パーソナリティ障害の患者が、人生の最早期に、子供に本来与えられるべき愛情と世話が適切に与えられなかったことが分かってきています。この時期に養育者(多くの場合は母親)から無条件に与えられる愛情が、確かな自我の基盤を形作ります。それが損なわれると、自我自体が極めてもろいものとなり、人とつながることも困難となります。

生後半年から1年半の間は乳児が母親に愛着を抱くようになる時期です。愛着とは英語で attachment といい、文字通りくっつくことをいいいます。何にくっつくかというと母親にくっつきます。この時期になると乳児は母親を識別し、守ってくれる特別な存在だと認識します。この時期の乳児と母親との情緒的なつながりに問題があると、後年になって青年期あるいは成人前期に境界性パーソナリティ障害を発症するリスクが高くなります。

藤圭子はなぜ境界性パーソナリティ障害を患ったのか

1970年8月発行の月刊明星に ”いちばん親しい22人が語る藤圭子のもうひとつの顔” という記事があり、母親の竹山澄子さんが藤圭子のことについて話していますので引用します。

 … それでいながらひどくあまったれでしてね。これを言うとあの子におこられるんですが、小学校6年ごろまで、私のオッパイを吸っていました。
 学校から帰ってくると、すうっと私の後ろにまわってきて、あまえ声を出しながら、私のフトコロヘ手をすべりこませるんです。

今どき、小学校6年ごろまでオッパイを吸っていましたなんて言ったらドン引きされます。当時でもそうでしょう。それをなんのてらいもなく話す母親にも驚かされます。このエピソードは、藤圭子が乳児期に母親からの愛情を満足に受けられなかったことを物語っているようです。

「流星ひとつ」で藤圭子が乳児の頃を話しています。

「とてもおとなしかったらしいの。楽屋でね、お母さんが舞台に立つ頃になって、袴をつけはじめると、あたしのお姉ちゃんは、すぐ大声で泣き出したんだって。あたしはね、楽屋にいる手の空いた女の人の方に這っていって、オブオブとかいって、おぶってもらおうとしたんだって、いつでも。ほんとに手がかからなかったって、お母さんが言うよ」

手がかからないといって喜んでいる場合ではありません。このエピソードは乳児の藤圭子が、母親の竹山澄子さんを他の人とは異なる特別な人だとは認識していないことを示しています。つまり愛着の形成がうまくできていないということです。

極貧状態だった名寄時代と面前DVにさらされた藤圭子

藤圭子は岩手県一関市に生まれると、父方の親戚を頼って一家はすぐに北海道名寄市に移っています。旭川市に移ったのは藤圭子が2、3歳の頃です。

この名寄時代が一番の極貧状態でした。婦人倶楽部1970年7月号が伝えています。

純子の誕生の頃が、一番生活が苦しかった、とも澄子さんはいう。
「昼は門付け、夜は流しの毎日でしたからね。オムツを変えてやる暇もろくにないんです。泊まるのも乞食と一緒の木賃宿ですから、オムツが洗えなくてね…ぬれたのをそのままかわかして使ったことも何度かありました」

父親の阿部壮氏は、浪曲だけでは食えずに紙芝居もやっていましたが、結局、名寄市では暮らしていくことができず、北海道第2の都市である旭川市に移ります。

名寄市から旭川市に移ったとき、最初の住所は旭川市にかかる忠別橋上流の河川敷に存在した "サムライ部落" と呼ばれた住宅群でした。そこは掘っ立て小屋が建ち並ぶような貧困地区で、藤圭子の一家には普通のアパートを借りる経済的余裕がなかったことが分かります。

極度の貧困では、子どもに愛情と余裕を持って満足な養育を行うことが困難となります。藤圭子の場合はその上に面前DVにさらされることにもなりました。面前DVというのは、子どもの面前で両親の間で暴力の行使が行われることです。面前DVは子どもが暴力を受けていなくても、子どもにとっては心理的な虐待に当たるとされています。

女性セブン1973年5月23日号で、竹山澄子さんが、阿部壮氏からメチャクチャに殴られて、1週間も舞台に立てないことがあったと述べています。

1970年8月発行の月刊明星で藤圭子の祖母の竹山ヨキさんが話しています。

 とにかく小さいときからしっかりした子でしたのう。
 純子(圭子の本名 阿部純子)の母が、よく夫婦ゲンカをして札幌の私のところへやってくることがあったけれど、そんなときいつもあの子がついて来たもんじゃった。
 母親がカッカしていても、涙ひとつこぼすわけじゃなく、自分の孫ながら頼もしいと思いましたわ。
 まあ、犬も食わない夫婦ゲンカのことじゃから、1日か2日もすれば旭川へ帰って行くんじゃが、純子は自分の帰りじたくはさっさとしてしまって、「おかあちゃん、忘れ物ない?」なんて、反対に母親の世話を焼いておったほどじゃ。ほんとににくらしいほど手間がかからない子じゃった。

しっかりした子だと感心していい場合ではありません。藤圭子が4、5歳頃でしょうか。両親が不仲なのは自分のせいだと幼い藤圭子が思ったとしても無理はありません。

藤圭子の家族は典型的な機能不全家族に該当します。母親から充分な愛情を受けることなく育った藤圭子は、マスメディアから "一卵性母娘" と呼ばれるほど、目の悪い母親を強迫的に世話するようになります。藤圭子は母親を熱心に世話しますが、本当は自分が母親から愛されたいことの裏返しの表現のように思えます。