”当確” のはずの紅白復帰ならず ダウンした藤圭子

藤圭子は紅白出場に異常ともいえるほどの執着をもっていたエピソードがあります。

「流星ひとつ」で、1973年の紅白に選ばれなかったとき、藤圭子が、NHKは藤圭子を必要としていないのだから来年のNHKに出るのはやめようとマネージャーに迫ったと話しています。しかしマネージャーが同意してくれなかったので ”爆発” したといいます。”爆発”というのは ”ひどい暴言を吐いた” というほどの意味でしょうか。

藤圭子の論理はなんとも幼稚です。藤圭子が主張したのは、言ってみれば、NHKに冷たくされたので、逆にNHKを困らせてやろうということです。すねています。プロ意識のある歌手であれば、一旦はがっかりはしても、来年こそは選ばれるように実績をあげようと気持ちを切り替えるはずですが。

「流星ひとつ」では、紅白自体にはなんの魅力も感じなかったと話していますが、本当に紅白出場に何のこだわりもないのであれば、選ばれなかったからといって、自分の歌手活動に大きなマイナスの結果となる、NHKを困らせるようなことをやろうとするのは矛盾しています。

藤圭子は本心では紅白に出たくでしかたがなかったことは明らかです。紅白に出場するということは歌手として一流であるということのお墨付きをもらったと同じことです。連続出場を果たしていながらその選考にもれたことは、藤圭子にとって大きなショックであろうことは想像に難くありません。

ですがそうだからといって ”すねて” しまっては話になりません。藤圭子がやろうとしたことはプロらしくないどころか子供っぽいです。こうした藤圭子の言動も普通の藤圭子ファンからすれば ”純粋な心” と受け止められ、理想化されるのでしょうか。

連続出場が途切れた翌年の1974年に、藤圭子は『命火』で紅白復帰に賭けています。1974年7月発行のサンデー毎日から引用します。

もう一度燃やすか藤圭子の ”命火”

「とどのつまり、藤圭子はどうなっちまったんだ?」という声が、若者の間で上がりつづけていたのは、藤が70年前後、若者たちの心情的アイドルになって、怨念のスターになっていたせいだった。

ところが、イメージと本人の生き方とは、大いにズレができて、クールファイブの前川清とママゴトみたいな結婚ごっこ、離婚ごっこをやったり、父親にテレビで「銭よこせ」とさけばれたり……。まるでパットしないまま、声はしわがれ、低迷すればするほど、テレビに出てきて、愛想よくニコニコしたり……。

「長いこと、藤は藤でなさすぎました。大いに反省します」と、そのへんのニュアンス、腹にこたえて巻き返す気になったのが、彼女の育ての親で、作詞家の石坂まさをである。結局は藤圭子、用意された新曲が『命火』というやつである。
 (中略)
”演歌の星の下に生まれた宿命の少女” も、7月5日の誕生日で22歳になるとかで、キャッチフレーズ好きのスタッフがつけた今度の看板は、ズバリと「新生・藤圭子」で、レコーディングのスタジオに、幕を張りめぐらせ、かがり火をたいたりして、大騒ぎだ。

1974年8月25日発売で、起死回生を込めた ”命火” でしたが、オリコン最高34位、7万枚足らずしか売れませんでした。しかし、週刊誌などでは ”紅白当確” と報道されており、事務所も当選間違いなしと判断していました。1974年12月発行の週刊明星から抜粋して引用します。

ところが午後3時過ぎ事務所から圭子にかかってきた電話は意外にも、「残念ながら、”紅白” は落ちた」

一瞬の沈黙があったが彼女は取り乱すふうもなく「そうですか、わかりました。(略)残念といえばほんとうに残念です。今年は自分でも一生懸命がんばって、『命火』をみなさんがあれだけ推してくださったのに…。でも認めてもらえなかったのね」

最後は消え入るような声になって電話を切った。

とたんに激しいショックが、あらためて圭子を襲った。”紅白” に落ちた! 全身の血が逆流するように圭子は茫然自失した。やっとの思いで、よろけるように自分の部屋に入ると、ドアを閉めて突っ伏したままだった。

ようすを知って驚いたお母さんが、すぐ事務所へ連絡。往診を頼んだ医師が訪れたとき、圭子はぞくぞく寒気がする身体で、ベッドに横たわっていた。

翌11月21日と22日に予定されていた中国地方の公演は直前でキャンセルとなり、藤圭子は27日まで仕事を休んでいます。公演をドタキャンしたため、一時は失踪説が流れたと当時の週刊平凡にあります。

藤圭子が翌日に予定されていた中国地方の公演に出られなくなり、その後、1週間に渡って仕事を休んだのは、藤圭子のプロ歌手としての ”自信” が、紅白落選で打ち砕かれたことが原因だと考えられます。

再起を賭けた ”命火” ですが、大ヒットしたかつての ”不幸路線” を継承するものであり、新しさはなく、すでに大歌手となって莫大な金額を稼いでいる藤圭子には似合わなくなっていました。

この紅白落選で、藤圭子は石坂まさをに見切りをつけ、沢ノ井事務所の佐々木社長に「石坂先生とはもう仕事をしたくない」と申し入れ、同事務所から離れることになります。1974年12月発行の週刊明星から石坂まさをの発言を引用します。

「タレントがそういうなら、別れるよりしょうがありませんな」と、石坂氏は感情を押し殺して言う。

「紅白にカムバックさせたい、レコード大賞でもどれかの部門に食い込ませたいということで、費用を惜しまず『命火』に賭けたんですが、結果としてはどっちもだめだった。あるいはプロモートに失敗があったのかもしれないが、沢ノ井事務所には藤圭子以外にタレントがいるわけではないから、社員全員が彼女ひとりのためにがんばったんですよ。それにもかかわらず彼女が、紅白に落ちたからといって、仕事に穴をあけるようなことをしたのは、彼女を育てた私の責任とはいえ、たいへん残念です」

沢ノ井事務所を離れた藤圭子は新栄プロダクションに移り、新しい作詞家、作曲家の作品を歌いますが、これといったヒットが生まれることはありませんでした。最もヒットしたのは1975年のはしご酒で、オリコン最高43位、11万枚です。これ以外はほとんどが1万枚前後と惨憺たる結果となっています。1977年には再び石坂まさを作詞で2つの作品を出していますが、まったくといっていいほど売れませんでした。

すでに時代が変わっており、その時代の波に藤圭子が再び乗ることはありませんでした。