ヒカルのデビューを機に再起しようとしていた藤圭子

藤圭子が宇多田ヒカルのデビューに一所懸命だったことはよく知られていますが、ヒカルとともに自身も心機一転新しく歌手として再起したがっていたという点に関してはあまり知られていないようです。

藤圭子は、宇多田ヒカルがデビューする1998年暮れまでの間に、多くのロック曲を発表しています。U3名義で発表した1993年のアルバム『STAR』は全曲がロックで占められていますし、1996年9月の『冷たい月-泣かないで』も本格的なロックです。

1997年4月6日 NHK『ときめき夢サウンド』のステージで、ビートルズ・ロックンロール・メドレーを歌っている動画があります。


藤圭子 ビートルズ・ロックンロール・メドレー 共演:尾藤イサオ・白井貴子

同時に同じステージと思われる音源で、ナンシー・シナトラの『 These Boots Are Made for Walkin'』をソロで歌っている次の音源もYouTubeにあります。


These boots are made for walkin' / 藤圭子

藤圭子は1990年に照實氏と宇多田ヒカルを加えた音楽ユニットU3を結成し、米国に拠点を構えてロック調のアルバム制作を行いますが、それにはヒカルを世界に通用する歌手に育てるという目的もありました。

そのための活動資金稼ぎのために日本でドサ回りをしていました。TV番組に出演するのは、それほど稼げるわけではありませんが、人々の知名度を上げられるので、TVで知名度を上げればドサ回りでも人が集まるということなのでしょう。

TVのステージでは『圭子の夢夜ひらく』や『新宿の女』をうれしそうに歌っている動画もありますが、目的はあくまでもドサ回りでの人集めにあったものと思われます。

その一方で、YouTubeには『圭子の夢は夜ひらく』をアレンジを変えて歌っている動画が3つあります。次の動画はそのうちの一つです。 1994年3月31日『紅白歌のベストテン』のステージですが、藤圭子は『圭子の夢は夜ひらく』を懐メロとしてではなく、新しい魅力ある曲として歌っています。ですがこうしたアレンジが一般に受け入れられるかどうかはまた別の問題です。


藤圭子♥圭子の夢は夜ひらく(紅白歌のベストテン)

当時流行っていた人気曲をオリジナル歌手ではなく、他の歌手などがカバーして歌う『THE夜もヒッパレ』という番組がありました。藤圭子はこの番組に何度も出演し、最新のJ-POPなどを歌っています。藤圭子が出演した日付や曲目は次の通りです。

『THE夜もヒッパレ』出演日 曲目/オリジナル歌手/カバー歌唱者

1995年2月25日
 二人は恋人/森高千里/藤圭子
1995年4月22日
 サンキュ/DREAMS COME TRUE/藤圭子 グッチ裕三 モト冬樹
1995年6月24日
 MOON WATER/工藤静香/藤圭子
1996年9月14日
 SWEET 19 BLUES/安室奈美恵/藤圭子 グッチ裕三 モト冬樹
1997年3月8日
 甘い運命/UA/庄野真代 藤圭子
1997年5月31日
 Da.isu.ki/内田有紀/藤圭子 庄野真代 麻倉未稀
1997年11月15日
 Shinin' on - Shinin' love/MAX/藤圭子 冴木杏奈

これらのうち、1995年6月24日放送の、工藤静香のMOON WATERをカバーしている動画がYouTubeにUpされています。


♪♪ Moon Water ♪♪ ★

『THE夜もヒッパレ』でMCを務めていた中山秀征は、1995年の4月にDREAMS COME TRUEの “サンキュ” を軽快なステップでダンスしながら歌った藤圭子が、トークの中で「家で練習していたら主人と子どもが『(吉田美和に)似ているね』って言ってくれた」と話していたと述べています。

また、1996年9月に安室奈美恵の “SWEET 19 BLUES” を歌っていた藤圭子が、ダンスしていたので、彼女のステップに感心した中山秀征が、誰かに教わったのかと尋ねたところ、「娘です」と嬉しそうに答えたといいます。中山秀征によれば、この時は、スタジオにデビュー前の宇多田ヒカルも来ていたといいます。

こうしたことを考えると、藤圭子はそれまでの "演歌歌手" としてではなく、ロックもポップスも歌える『歌手・藤圭子』として新しく再起したいと考えていたものと思われます。

ですがその前途に大きな障害が立ち塞がります。それがヒカルの大ブレークです。

ヒカル人気があまりにも過熱しすぎたため、ヒカルのライバル勢力(音楽事務所やレコード会社など)は、なんとしてもスキャンダルなどで、ヒカル人気に水を指したいと考えていたはずです。

また藤圭子など演歌歌手の興行で影響力のあった暴力団が、藤圭子の再起にかこつけて莫大な金額を稼ぐ宇多田ヒカルの利権に食い込みたいと考えていたとしても不思議ではありません。

このような周囲の状況で、藤圭子が再び歌を歌うことになれば、昔から付き合いのあった暴力団から声がかかり。断りきれずに暴力団の収入源に利用される結果となることは想像に難くありません。当時の状況でそのことが明らかになればそれこそスキャンダルです。

それは宇多田ヒカルにとってもスキャンダルになるものです。そうしたことから藤圭子は新しく再起する夢を捨てて、宇多田ヒカルを守る道を選んだのでしょう。

2014年6月5日のLITELAは次の記事を掲載しています。

「実際、藤は一時、ヒカルのブレイクを契機に歌手として再起したがっていたようです。それを全力で周りが阻止していた状態だったと聞いています」(スポーツ紙記者)

このスポーツ紙記者というのは、スポニチの圭子番である阿部記者のことでしょう。彼は藤圭子からの信頼が厚く、その記事には信用が置けます。

藤圭子は、それまでの ”懐メロ歌手” としてではなく、ロックやポップス歌手としてどうしても出直したかったのでしょう。ですが、結局周りからの強い説得を受け入れ、宇多田ヒカルのデビューと同時に藤圭子がステージで歌うことは事実上なくなりました。

当時の藤圭子の言葉によれば、藤圭子を自ら『封印』したということになります。そのことで藤圭子は『歌手』という数少ない重要なアイデンティティを失うことになってしまいました。歌手でなくなった藤圭子には、確かなアイデンティティは残されていませんでした。

後からどうこう言っても始まりませんが、歌手を続けていられれば、自殺にまで追い込まれることはなかったと思います。