石坂まさをの 母 がテーマの「新宿の女」

藤圭子の代表曲のひとつである「新宿の女」は、特定の人物をイメージして書かれています。作詞した石坂まさをは、1999年刊の自著「きずな」で「新宿の女」を作詞した場面を次のように書いています。

このとき、私の頭のなかには、はっきりと母・千恵の姿が浮かんでいた。父・音次郎の愛を信じて生きてきた母である。どんなに放蕩のかぎりをつくして死んだ夫であっても、母は毎日のように仏壇に手を合わせて語りかけてきたのだ。

石坂まさをの母は千恵といい、石坂まさをは母から溺愛されて育ちました。父の澤ノ井音次郎は看板業を営み、石坂まさをが生まれる前には商売が繁盛し、十数人の職人を雇う程までになっていました。

生活に余裕ができてから父は女遊びにふけるようになり、母のほかに8人の愛人を持つまでになります。母は子供を生めない体で、父は愛人との間に6人の子供をもうけます。石坂まさをは4番目の愛人の子で、愛人が子供を育てられなかったので、母の千恵が引き取り育てたのです。

石坂まさをは、子供ができなかった母から、実の子以上に愛情深く育てられたと書いています。

戦後まもなく、母と石坂まさをは父の8番目の愛人宅の離れに住むようになります。まだ小さかった石坂まさをはある光景を目撃します。「きずな」から引用します。

あるときのことだった。夕方になって私が遊びから帰ってくると、母は母屋の風呂場の焚き付け口で懸命に頬をふくらませて火吹き竹を吹いているところだった。背後から声をかけようとして、一瞬、立ち止まった。風呂場のなかから父の声がしていたからだ。
「ち江、もっと熱くしてくれ」
ついで、中杉のおばさんの声が聞こえた。
「そんな、悪いわよ。ち江さん、ごめんなさいね」
母は無言で、また頬をふくらませると火吹き竹を吹きつづけた。風呂場のなかからは、父とのぶのはしゃいだような声が聞こえていた。夫と愛人の入っている風呂の湯を、本妻である母が懸命に沸かしているのだ。
私には、父が母以外の女性と風呂に入っていることがどんな意味をもつのか知る由もなかったが、焚き付け口にうずくまって火を燃え盛らせている母の姿が、とても奇妙なものに思えてならなかった。
そして、なにか見てはいけないものを見てしまったようで、声をかけるどころか、物陰に隠れるようにして母の後ろ姿を見ていた。

父はたびたび愛人宅に訪れてきましたが、母は、そんな夜、きまって「ねぇ、龍ちゃん、お母さんと一緒に寝ようか」と、冗談のように言い、幼い石坂まさをの布団にもぐり込んできて抱いて寝たといいます(澤ノ井龍二石坂まさをの本名)。

父が亡くなったとき、母に遺されたのは新宿にある50坪ほどの3部屋の平屋の家だけでした。父が経営していた看板業は二号の星野あきが受け継ぎ切り盛りしていました。本来なら法的には会社を受け継ぐ権利は母にありましたが、金銭的な問題で裁判に訴えることができなかったのです。

未亡人となった母の千恵は朝早く起き出し、戦後の焼け野原の工場跡地などから鉄くずを拾ってくず鉄屋に売ったり、駄菓子屋を開いたり、裁縫の内職をしたりして生計を立てるようになります。

そうした母の苦労を見ていた石坂まさをは、小学4年生のときに新聞配達のアルバイトをはじめ、その金を母に差し出しましたが、母は自分の小遣いにしなさいといってけっして受け取ろうとはしなかったといいます。

石坂まさをは「たとえ貧しくても、子どもにだけは辛い思いをさせまいとする母の心は今も昔も変わりないだろうが、とくに私の母は人一倍強かったようで、そんな母の期待に応えようといつも思っていた」といいます。

当時の母には、父の愛人だった星野あきに対するライバル意識があったのだろうと、石坂まさをは書き、星野あきは、父から受け継いだ看板業が戦後の復興需要で潤っており、母はどんなことがあっても父の愛人だった女性にだけは負けたくないと思っていたにちがいない、とも書いています。

石坂まさをの前で藤圭子が初めて歌った後で、母の千恵は石坂まさをに「龍ちゃんがあの子を歌手にできたら、私も〝あきんべ〟に勝てるしね」とポツリと言ったといいます。〝あきんべ〟というのは星野あきのことです。

石坂まさを藤圭子の歌唱に可能性を見出したことは確かですが、死に物狂いで藤圭子を売り出そうとしたその背景には、作詞家として藤圭子を一流の歌手に育てることで、母の星野あきを見返したい思いを満たしてあげようという理由もあったものと思われます。

藤圭子とその母・竹山澄子さんとの関係は ”一卵性母娘” とまで形容されるほど濃密でしたが、石坂まさををとその母・澤ノ井千恵との関係もそれに劣らないほど密接なものだったといえるでしょう。

「新宿の女」歌詞の冒頭は有名な次のフレーズで始まります。

 私が男に なれたなら
 私は女を 捨てないわ

「きずな」は副題が「藤圭子と私」となっていますが、全体の2分の1が石坂まさをと母とのエピソードで占められています。

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残りの2分の1には藤圭子のことが書かれています。石坂まさを藤圭子とその母の竹山澄子さんとの関係を、宇多田ヒカル藤圭子との関係になぞらえて

純子の背には母・澄子の執念が乗り移っているとしかおもえなかった。そして、宇田多ヒカルの背にも、母・純子の執念が相似形に重なっている。

と書いていますが、本当のところ、竹山澄子さんが藤圭子にかけた執念は、藤圭子宇多田ヒカルにかけた執念の足元にも及ばないと思います。それほどまでに藤圭子宇多田ヒカルを歌手にしようとした執念は桁違いに強いものでした。

そこには爆発的人気を得ながらも、それは1年ほどしか続かずに、それ以降、目立った実績をあげることができずに、昔の人気の余韻で歌うしかなかった藤圭子自身の不本意だった歌手人生を、娘を世界的な歌手に育てあげることでやり直したかったという藤圭子の強い望みがあったのだと思います。

「きずな」の表紙の絵は、石坂まさをが会った9歳頃の宇多田ヒカル藤圭子の ”きずな” を暗示しています。