藤圭子の暗黒エネルギー

このブログの最終的な目的は、藤圭子がなぜあのような悲劇的な最後を遂げなければならなかったのか。その理由を解明することです。

村田英雄の病室を見舞った藤圭子

1973年8月23日の週刊平凡に、入院中の村田英雄を藤圭子が見舞った様子が掲載されています。村田英雄は同年4月頃から糖尿病の悪化で入院していました。

村田英雄は、4歳のときから芸名を持って浪曲師の両親の巡業先で舞台に上がり浪曲を歌っていました。13歳で真打ちに昇進し、14歳で早くも座長を務めています。おもに九州で地方公演を続けていましたが、1949年に浪曲師として新栄プロダクションへ加入し、25歳となった1954年から芸名を村田英雄に変えています。

ずっと浪曲を歌っていましたが、1958年に「無法松の一生」で歌手としてデビューしています。1962年に「王将」が大ヒットするとともに、過去の「無法松の一生」や「人生劇場」もヒットするようになり、歌手としての人気を確立します。同年には「王将」でレコード大賞特別賞を受賞しています。

村田英雄は大の酒好きで、1964年、35歳には早くも糖尿病に罹っています。1972年に入院しており、この記事の入院は翌年、2度めの入院ということでしょう。

f:id:intron123:20181125123248j:plain

週刊平凡の記事から引用します。

早く元気になってください 村田英雄の病室を見舞った藤圭子

極度に悪化した糖尿病で、ことし4月東京・台東区根岸の下谷病院に入院した当初は、医師から生命の危険まであると宣言されたほどの村田英雄。4ヶ月経過した現在、54キロしかなかった体重も65キロに増え、ほぼ全快に近い状態にまでなった。あと2、3ヶ月で退院のメドがつき仕事のほうも来年1月には大丈夫だという。その病室を藤圭子が見舞った。これは年末に予定されているRCAレコードのセールスマンが企画した彼女のLPの相談も兼ねたもので、約1時間にわたり村田からいろいろアドバイスを受けていた。

この時、村田英雄は藤圭子に ”心の歌” と書いた色紙を贈っています。

藤圭子は1975年初めに澤ノ井音楽事務所から、村田英雄と同じ新栄プロダクションに移っていますが、そこで村田英雄を前にして「無法松の一生」を歌ってしまうという有名な ”事件” を起こしています。そうすることが村田英雄にとって失礼にあたるということが藤圭子には解らなかったのでしょう。

藤圭子には普通の人なら決してしない言動をしてしまうところがあります。今で言えば、軽い発達障害、軽度なアスペルガーで見られるような言動です。これは言い方を変えて、よく言えば ”純粋” ということになるでしょう。

例えば「流星ひとつ」で藤圭子

「それに歌いつづければいい、永く芸能界にいつづければいい、なんていうことはないと思うんだ。永く歌っていたからといって、紫綬褒章だかなんだか知らないけど、国から勲章もらって……馬鹿馬鹿しいったらありゃしない。その歌手はただ生活のために歌を歌っていたに過ぎないのに。それだったら、どうしてお豆腐屋さんのおじいさんにあげないんだろう。だめな歌は、もう歌じゃない。だめな歌を歌う歌手は、歌手じゃないはずなんだ」

と国が贈る勲章嫌いであることを率直に吐露しています。

勲章や褒章の馬鹿らしさには同意しますが、藤圭子の誤りを指摘するとすれば、紫綬褒章は永く歌っていたからという理由で贈られるものではありません。芸術文化分野などにおける「優れた業績」を挙げた人に贈られるものです。

藤圭子のように、勲章を馬鹿馬鹿しいと否定するような「過激な考え方の人」は、当時も今も少数派でしょう。

大下英治著「悲しき歌姫」には

べてが理詰めで追及してくるのだ。「成田さん、なぜ? どうして?」
藤より一歳ほど若いマネージャーの成田は、どんどん藤に問い詰められて、答えられなくなる。

藤圭子がすべて理屈を優先して考えていたという記述があります。またこういう記述もあります。

突拍子もない行動のように見えて、実は、藤の頭の中で計算ずくだ。これから向かう大阪の仕事がどの程度の仕事かということを知っていて、この仕事に行かなかったとしても、うまくおさまるだろうと判断し、新幹線に乗らなかった。もちろん、成田への影響も考慮していた。

藤圭子は、筋の通った合理的な理由があるわけではないが、今後の付き合いの関係などで、何かと良い関係を結んでおけば都合がよい、ということに価値を置いていなかったのだと思います。

ドタキャンしても大して実害がある訳ではないのでしょうが、わざわざ時間を開けて待っていたのにドタキャンされた人に失礼です。それに先々の仕事で影響が出てこないとも限りません。こういうことでは芸能界に向いているとは到底いえません。

前のエピソードと同じように、藤圭子には理屈で割り切れない建前的なものを否定するという特徴的な考え方が見うけられます。ですから村田英雄の前で「無法松の一生」を歌っても何の問題もないと考えたのでしょう。村田英雄にとって失礼にあたるというのは理屈では解らないものです。

その考え方は後年になって、いかに故人と親しかったか、故人が偉くなったのは自分のおかげ、といった会葬者の自慢話ばかりを聞かされる、心のこもっていない葬式への出席を拒否したことにも表れています。

藤圭子が亡くなった時、宇多田ヒカルはこうコメントしています。

母は、身内や知人の葬儀には出席せず、自分の時間、自分のやり方でお祈りを捧げる、というポリシーの持ち主でした。葬儀や告別式といったイベントを好むような人ではなかったことを、母をよく知る者、母のためを思う方なら、ご理解してくださることと思います。

その藤圭子の意思は、自身が亡くなったときに通夜や葬式を行わなかったことにも貫かれています。