藤圭子の暗黒エネルギー

このブログの最終的な目的は、藤圭子がなぜあのような悲劇的な最後を遂げなければならなかったのか。その理由を解明することです。

ロック歌手に転向したカルメン・マキ と 米国でロックを歌うために英語を勉強した藤圭子

似ているようで違う、違っているようで似ている。カルメン・マキと藤圭子は、私にとってそんな関係です。

カルメン・マキは藤圭子がデビューする7ヶ月前、17歳のときに「時には母のない子のように」でデビューしています。寺山修司の秀悦な歌詞と、カルメン・マキのエキゾチックな容貌と、その突き放したような歌唱スタイルが人々の琴線に触れ、レコード売り上げが100万枚を超える大ヒットとなり、カルメン・マキはこの曲で紅白出場を果たしています。

藤圭子の歌唱スタイルは、カルメン・マキの歌唱スタイルとよく似ています。直立不動でまったく媚びることなく、無表情に淡々と歌う。これは新人歌手として世に出ることになるカルメン・マキが、並み居る他の歌手と伍していくにはどうしたらよいか、を考えた末に編み出した歌唱スタイルだといいます。

私はカルメン・マキの初期の曲では「戦争は知らない」が一番好きなのですが、これも寺山修司の作詞で、彼の卓越した詞の才能が遺憾なく発揮された名作だと思います。この曲はザ・フォーク・クルセダーズ加藤登紀子なども歌っていますが、”当時の” カルメン・マキの歌唱が一番魅力的です。

カルメン・マキも藤圭子も、ともにデビューしてから間もなくしてロックを好むようになります。大下英治著「悲しき歌姫」では、1972年頃に藤圭子がロックを聴くようになった様子が書かれています。

藤圭子の人気もそろそろ落ち着いてきたころ、藤圭子はロックを聴きだした。

もともと、ロックが好きだった藤圭子は、ロックを歌うことが夢のようだった。英語の勉強もはじめ、少しでも時間があれば赤坂のディスコ「赤坂ビブロス」や六本木のディスコに通い、プライベートの時間をロックで満たしていた。

「気をつけろよ」

藤のマネージャー成田忠幸はそういって注意していたが、ときには、髪の長い男と二人で歩いているところを見つけたりすることもあった。藤圭子は、「大丈夫、大丈夫」というのだが、成田は、「何が大丈夫か」と気が気ではなかった。

また、遊びにいった先で知り合った、波長の合うキャッシーという十六歳のハーフの女の子と友だちになり、英語力をアップさせるために英会話を楽しむようにもなっていた。

しかし、クレバーな藤圭子は、そのことを意思として表すことはせず、ロックは自分の中で好きなもの、演歌は仕事で歌うものと区別していたところがあった。

それでも、いつも身近にいる成田には、本心を打ち明けていた。

「いつか、アメリカに行きたい」

成田は感じていた。〈純ちゃんは、アメリカに住みたいんだろうな……。そこで、ロックを歌いたいんだろうな……〉 

藤圭子が、演歌をそれほど好きではないことは知っていた。

藤圭子が英語を学び始めた理由が、米国でロックを歌うためであることは明らかです。

ロックの魅力を知った藤圭子が古くさい演歌を好んでいたはずがありません。みずからのパワーが発揮できる、朗々と歌い上げる「北国流れ旅」など、ロックと合い通じる部分のあるごく一部の演歌は好みだったでしょうが。

藤圭子には日本でロックを歌うという考えはありませんでした。それは ”怨歌の歌い手” というイメージが、日本人の間にあまりにも強固に張り付いてしまっていたと、藤圭子が考えたからでしょう。日本でのロックへの転向をあきらめ、米国でロックを歌うことに決めたのだと思います。

1990年代前半と思われる次の動画で、藤圭子は楽しくてしかたがないといった感じでロックを歌っています。見ているこちらまで楽しくなってしまいます。


藤圭子 ビートルズ・ロックンロール・メドレー 共演:尾藤イサオ・白井貴子

1979年に藤圭子が引退を決めたことの大きな理由のひとつに、米国でロックを歌うためということがあったものと思われます。

藤圭子は、1992年に米国で全曲がロック調の曲で占められているアルバム「STAR」を発表する予定でしたが、おそらく資金が枯渇したためと思われますが、日本に帰国して翌年に国内で日本語に歌詞を変えてU3名義で発表しています。


カルメン・マキはハーフで母子家庭で育っています。高校を中退してブラブラしていた時に天井桟敷の舞台を見て強い感銘を受け、すぐに入団を決めたといいます。

舞台で演劇をしていたところをCBSソニーの関係者に見出され、歌手としてのデビューが決まります。レコード売り上げでの貢献のご褒美としてCBSソニーの社長から、レコードプレーヤーとLPレコードをプレゼントされたのですが、CBSソニーが洋楽を得意としていたところから、レコードはすべて洋楽でした。

そこで聞いたジミ・ヘンドリックスジャニス・ジョプリンボブ・ディランなどを聴いて、ひっくり返ったり飛び上がったりするほどの衝撃を受け、”音楽ってこういうものなんだ!” と思ったといいます。カルメン・マキ にとって、それまで自分が歌っていたのは本当の音楽ではなかったということでしょう。

ロックの魅力に目覚めたカルメン・マキは、みずからロックバンドを結成します。それが日本最高のロックバンド「カルメン・マキ & OZ」です。1975年に発表したファーストアルバム『カルメン・マキ&OZ』は、当時のロックアルバムとしては異例の10万枚を売り上げ、大ヒットとなりました。

当時、大学生で寮に入っていた私はある夏の夜、開けていた窓越しに隣の棟から大音量で聞こえてきた「私は風」での、カルメン・マキの激越な歌唱に度肝を抜かれたものです。


カルメン・マキ&OZ_私は風

このアルバムでカルメン・マキは完全なイメージチェンジに成功し、日本を代表するロック歌手となりました。アルバム『カルメン・マキ&OZ』は日本ロック史上に輝く金字塔を打ち立てたのです。その曲はキング・クリムゾンなど、プログレッシブ・ロックの影響を色濃く受けています。

仮に藤圭子が「私は風」を歌ったら、カルメン・マキに引けを取らない歌唱ができるでしょうか。おそらく無理でしょうね。歌唱における爆発力はカルメン・マキが一枚上のようです。