藤圭子の暗黒エネルギー

このブログの最終的な目的は、藤圭子がなぜあのような悲劇的な最後を遂げなければならなかったのか。その理由を解明することです。

混乱を極める芸名 ”藤圭子” 名付けの由来

藤圭子” という芸名を名付けた由来については、比較的よく知られていることと思います。名付け親たる石坂まさをは、1999年刊行の自著「きずな」で、次のように芸名の由来について説明しています。

私は『花菱エコーズ』を売り出すときに世話になった『日本音楽放送』の工藤宏社長に相談した。相談といえば体裁はいいが、要は事務所設立の資金を出してもらうためである。

工藤社長は、私と純子を前にして二百八十万円の大金を出してくれた。私は、その場で純子の芸名を考えた。工藤社長の妹は”桂子”といった。工藤の”藤”と妹の”桂子”から”圭”の一字をもらい、”藤圭子”とした。

このときから、阿部純子は「藤圭子」となった。

これが ”藤圭子” という芸名の由来ということになっています。「きずな」の記述によれば、”藤圭子” という芸名を決めた時期は、その前の記述からデビューする少し前、1969年の初夏の頃であることが分かります。

藤圭子デビュー当時、スポーツニッポンの音楽担当記者だった小西良太郎氏は、藤圭子の取材に関して専任担当となる”圭子番記者”になりました。小西良太郎氏は、2000年に後任に譲るまで、30年以上に渡って”圭子番記者”でした。

2001年に刊行された自著「女たちの流行歌(はやりうた)」で、小西良太郎氏は初めて藤圭子と会ったときの模様を次のように書いています。少し長くなりますが引用します。

1968年のことだから、話は三十年以上さかのぼる。スポニチの文化部デスクだった僕は、そのころ三軒茶屋に住んでいた。お化け屋敷みたいな古い西洋館の二階を借りて、寝泊まりしていた友人が十余人。音楽プロデューサーや作詞家、作曲家、歌手のタマゴ、コピーライター、パントマイム青年に坊さんの見習いなどいろいろだ。

深夜、自宅に戻るといつものように、安手の梁山泊ふう酒盛りが盛り上がっていて、その傍らに客の作詞家石坂まさをが居た。珍しく女連れで、やがて彼は舌なめずりするような口調で話しはじめる。

面白いキャラクターの新人歌手を見つけた。この子で勝負する作品もできた。こんな時代だから、こういう路線がいいと思う。あんたは面白がり屋だから、きっと乗るだろう。僕の頭の中には、歌謡曲が何千曲も入っている。しかし、その中で名作と思えるものは、いくつもない。僕が影響を受けた作詞家は某々で、その代表作はこれこれ…。僕は歌謡曲にかけた夢を、今度の新人で果たそうと思う…。

訥弁の能弁というやつである。話はしばしば飛躍し、例え話が多くはさまり、どの辺へ着地するのか判らなくなる。そういう石坂に僕は慣れていたから、彼の話がやがて、ジグソーパズルみたいに一枚の絵になるのを、辛抱強く待った。

『演歌の星を背負った宿命の少女』

キャッチフレーズまでもう出来ていて、石坂は、それまでずっとほったらかしだった連れを、おもむろに紹介する。演歌の主人公みたいに細い肩と薄い胸の小柄な少女は、能面みたいな無表情を、微笑で少し崩した。

「本名阿部純子、この純ちゃんがね、来年、藤圭子になるの!」

石坂がやっと、その夜の結論を言ったーー。

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小西良太郎氏によれば、石坂まさをが ”藤圭子” という芸名を決めたのは、石坂まさをが書いているようなデビュー少し前ではなく、その前年、1968年ということになります。

藤圭子は自身の芸名の由来について「流星ひとつ」で次のように話しています。

「それはね、やっぱり日本一の山だから、名字は、ふじ、がいいって沢ノ井さんが言うんで、藤となったの。名前は、けいこ、というのが語呂がいいって。日本には沢山のけいこがいるけど、それは響きがよくて、呼びやすいからだって、それで圭子ということになったんだ」

かどのブログー藤圭子さんを決して忘れないーによれば、1971年刊行の藤圭子著「演歌の星 藤圭子物語」で、藤圭子は自身の芸名の由来について次のように書いています。

私の芸名の理由は、かいつまんでお話ししますと、藤プロの社長さんのお名前の一字「藤」をとり「圭子」はかつての沢の井先生のまぼろしの初恋の人の名まえを頂戴したものです。

藤圭子が、自身の芸名の由来という重要な事柄について、間違って覚えているはずがない、と普通は思います。ですが、藤圭子の場合は、意識して嘘をついているのか、無意識のうちに過去の記憶を作り変えてしまっているのか、そこの判定が困難です。

1979年当時、藤圭子石坂まさをとの仲は修復不可能なほど険悪なものとなっていました。そうしたことが背景にあって、「流星ひとつ」で藤圭子は、石坂まさをが名付けた自らの芸名の由来について事実と異なることを話している、と了解する以外にありません。

石坂まさをは、”藤圭子” の ”藤” の理由として、1969年のデビューにあたり、事務所設立で工藤氏から世話になったので、”工藤” の ”藤” をもらったと話していますが、その話と小西良太郎氏が1968年に石坂まさをから聞いた話とは食い違っています。

RCAディレクターの榎本襄氏によれば、1969年1月頃に藤圭子に初めて会ったとき、すでに藤圭子DENONからデビューすることが決まっていました。このことから小西良太郎氏が藤圭子に初めて会ったのは、1968年の終わり頃と分かります。石坂まさをが「来年、藤圭子になるの!」と言っているからです。

榎本襄氏によれば、石坂まさを藤純子のファンだったといいます。石坂まさをが「命預けます」を書いたのも、榎本襄氏によれば、石坂まさを藤純子のファンで、任侠映画で活躍していた藤純子にように、藤圭子に任侠ものを歌わせたかったからということになります。

阿部純子の名字を ”藤” にすれば ”藤純子” になります。芸名の名字を ”藤” と名付けたのは、石坂まさを藤純子のファンだったから、ということが真相のようです。ですがそうしたことを公にすることは、芸能人同士の関係がありますから、事務所設立でお世話になった工藤氏からという、別の理由が設けられたのでしょう。

名前の ”圭子” に関しては、藤圭子が「演歌の星 藤圭子物語」で書いていることが本当のようです。

石坂まさをが ”圭子” の由来について、藤圭子が「演歌の星 藤圭子物語」で書いていることと、1999年の自著とで異なることを書いているのは、自らのごく個人的なエピソードから名付けたということを伏せたかったためと思われます。その当時の時点で、藤圭子から激しく憎まれるようになったことを知ったからなのかもしれません。