藤圭子の暗黒エネルギー

このブログの最終的な目的は、藤圭子がなぜあのような悲劇的な最後を遂げなければならなかったのか。その理由を解明することです。

藤圭子がヒカルデビュー後に歌手活動を「封印」した理由とは

藤圭子がなくなって以降、YouTubeにUpされた動画に ”もっと生きて歌ってほしかった” といった趣旨のコメントがしばしばありますが、そうコメントする人は当時の藤圭子の置かれた状況を理解できていないです。藤圭子宇多田ヒカルがデビューして以降、1999年から自らの歌手活動を「封印」しています。

亡くなるまで、約15年間に渡って歌手としてステージで歌ったことは1回を除いてそれ以外はありませんし。藤圭子は1999年の時点で事実上、歌手を廃業しています。藤圭子が歌手活動を「封印」した理由は、藤圭子に根深い「暴力団依存」体質があったからです。

小さいときから暴力団と関わっていた藤圭子

両親が浪曲師で各地の興行でヤクザと親密な関係を持つ必要がありました。藤圭子は幼い頃から両親のヤクザとの付き合いを見て育っています。藤圭子にとってヤクザ・暴力団は仕事を円滑に進めてくれる良きパートナーだったといえるでしょう。

これは当時活躍した演歌歌手全般に当てはまることではありますが、藤圭子は大物演歌歌手であったため、付き合いのある暴力団も全国規模で大きな勢力を持っていた暴力団だったと思われます。

こうした芸能界と暴力団との結びつきは、1980年代後半になると社会的に問題視されるようになってきました。しかし、藤圭子自身はそういった風潮には無関心のようで、宇多田ヒカルがデビューする直前に出演したパーティで、広域指定暴力団の組長とツーショット写真に収まっています(こちらの記事)。

こうした藤圭子暴力団とのつながりは、全国をドサ周りした藤圭子の事務所の社長をしていた照實氏もよく知っていたことでしょう。照實氏自身が暴力団幹部と交渉した経験がたくさんあるはずです。そうした中で暴力団から様々な便宜を図ってもらったことでしょう。もちろん、それに対する金銭的な見返りは支払っていたでしょうが。

藤圭子暴力団依存体質がヒカルのマイナスになる

宇多田ヒカルがデビューした時に照實氏は、マスコミが藤圭子の名を出すことを極端に抑え込もうとしていますが、その理由をR&Bのヒカルに「演歌の藤圭子」のイメージが重なることを嫌ったため、と説明するメディアがありますが、それは違うと思います。

そんなことはたいして理由になりません。照實氏がヒカルと藤圭子の関係を隠したがったのは、藤圭子暴力団と親密な関係にあったからです。

もしも藤圭子がヒカルデビュー後も歌手活動を続けていたらどうでしょう。暴力団が関係しないテレビなどの出演だけに限ったとしても、歌手活動を続けている限り、昔世話になった有力暴力団幹部から、うちの方にも出演してくれと興行を要請されれば、断ることはできなくなります。

事実、日刊サイゾー「暴力団が封印!故・藤圭子が娘・ヒカルの『Automatic』を熱唱した夜」として、2000年に昔世話になった有力暴力団組長から請われて断りきれずに、藤圭子が地方で公演を行なったことが報じられています。この公演の模様が週刊誌に掲載されそうになり、直前になって発売を止めるよう圧力がかかり、記事内容が書き換えられています。

この公演の模様がそのまま記事となって世間に広まったとしたら、さらに多くの暴力団関係者から出演要請が来たことでしょう。すでに芸能人が暴力団と関係を持つことが許されない時代となっていたにもかかわらずです。

宇多田ヒカルの活躍を快く思っていないライバル勢力にとって、ヒカルの母・藤圭子暴力団との親密な関係を維持していることは、ヒカルのイメージダウンにつながる格好の攻撃材料です。

おそらく藤圭子は照實氏から、歌手活動を続けているとヒカルにとってマイナスになると説得されたのだと思います。

ヒカルを守るため自ら歌手活動を「封印」した藤圭子

スポーツニッポン芸能記者である阿部公輔氏は、2000年に小西良太郎氏の後を継いで、藤圭子の専任取材記者である ”圭子番” 記者となります。阿部公輔氏は、初対面の藤圭子から「私を藤圭子とは絶対に呼ばないでちょうだい!」ときつく言い渡されています。

「記者の身からすれば『圭子さん』と呼ぶしかないが、それを許さない。しかたなく本名の『純子さん』と呼ぶ。あれだけ知名度があっても、芸名への愛着はみじんも感じられなかった」とも述べています。

また、2006年に藤圭子テレビ朝日のインタビューに「私はもう藤圭子でもなんでもない。封印した」と本名の "純子" で取材に応じています。

藤圭子はヒカルを守るために自ら歌手活動を「封印」したのです。