藤圭子の暗黒エネルギー

このブログの最終的な目的は、藤圭子がなぜあのような悲劇的な最後を遂げなければならなかったのか。その理由を解明することです。

復帰は人間としてないと宣言していたが  引退8ヶ月後には早くも復帰を決めていた藤圭子

藤圭子は1979年12月に一度引退していますが、大下英治著「悲しき歌姫」によれば、その8ヶ月後には早くも復帰することを決めています。実際に復帰したのは1981年7月ですが、その約1年前には復帰することが決まっていました。「二度と復帰することはないと思います。人間として」とまで言って引退したにしては、それをすぐにひっくり返す気の変わりようは、第三者からすれば引退の判断も含めて軽率のそしりを免れないでしょう。

復帰の受け皿となったのは藤圭子の大ファンで実業家の藤原正郷氏でした。藤原氏藤圭子が引退してからその後を追い復帰を働きかけています。当初ハワイに渡った藤圭子は1980年春にはカリフォルニアに滞在していましたが、8月にニューヨークへ向かっています。

この写真はハワイ大学の聴講生になっていたときのものです。

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週刊平凡 1980年4月3日号から引用します。


「徹夜で勉強するのよ」
歌手廃業から3ヶ月、ハワイ大学の聴講生になりきった藤圭子

昨年の12月に引退した藤圭子が、いま、ハワイで独身女性の青春を謳歌している。
藤は、「今日は宿題がいっぱいで、徹夜になりそうなの」とハワイ大学の聴講生になりきり、若いクラスメートと英語の勉強に真剣にとりくむ毎日だ。
そしてスーパーに買い物に行き自炊の生活。鼻うたを口ずさみながら、お弁当のおにぎり作りはうれしい朝の日課
「ハワイは洗濯が楽で助かるわ。Tシャツ1枚で過ごせるんだから」と、言葉を弾ませた。
引退の時、多くの芸能記者は「2年もたったら戻ってくるさ」と言っていた。が、現在の藤は「絶対にありえない。今の生活がこんなに楽しいし、勉強の必要性を、ますます感じているしね」と、芸能界復帰に少しの未練も感じさせない返事だ。
藤圭子から本名の竹山純子に戻って「将来は語学を生かした仕事がしたい」と、28歳の女性の一大変身。


この記事で目を引くのは当時の藤圭子の本名が「竹山純子」であるということです。藤圭子の両親は1973年に離婚していますが、そのときに藤圭子は母親の竹山澄子さんの籍に入ったのでしょう。「流星ひとつ」のあとがきに掲載されている藤圭子からの手紙にも「竹山純子」と書かれています。

2006年春に藤圭子は照實氏と最後の離婚をしていますが、その時、もとの竹山家の戸籍には戻らず、新しい戸籍を作って旧姓の宇多田を継続して名乗っています。藤圭子が亡くなった時に宇多田ヒカルは、籍は宇多田家のままだったと述べていますが、法律上、そうすることは不可能です。宇多田姓を継続して名乗っていたことと戸籍とを混同していたのでしょう。

通常、離婚すると戸籍筆頭者でない場合は旧姓を名乗ることになっていますが、藤圭子の場合には竹山姓を名乗る選択肢はあり得ませんでした。何しろ「この世で一番憎んでいるのは母親」ですから。ずっと以前に藤圭子は母親とは絶縁しています。離婚しても旧姓を継続して名乗るには新戸籍を作らなければなりません。

事実、2006年の時点で「阿部家のお墓には絶対に入りたくない」と話していますから、籍が宇多田家の籍ではなく、新戸籍となっているのは明らかです。阿部家の墓に入りたくないのは幼少の頃に父親から虐待されていたためです。

藤圭子が亡くなった時、娘の宇多田ヒカル代理人を務めた照實氏が、藤圭子の兄の藤三郎氏が藤圭子と対面することを断った背景には、藤圭子自身の意向が働いていた可能性が極めて高いです。

藤三郎氏は阿部家の人間ですから、藤三郎氏が自身の死後に関わることで、藤圭子は阿部家の墓に入れられることになることを強く恐れていたと思われます。

藤圭子が亡くなった時、藤三郎氏は週刊文春の取材に「阿部家の願いがかなうなら2010年に亡くなった母・竹山澄子さんと同じ墓に入れたい」と述べています。

藤圭子は2010年に竹山澄子さんと和解したかに見えましたが、その直後に再び絶縁しています。藤圭子が生前に、藤三郎氏の意向とは真逆の意思を持っていたであろうことがうかがえます。

生前から藤圭子は、自分が死んだら阿部家の人間が一切関わることのないようにしてほしいと、照實氏に伝えていたはずです。

藤圭子が上の引退翌年の記事にあるように、明るく快活な様子なのは、もうすぐ沢木耕太郎と一緒に暮らせると思っていたからでしょう。当時ニューヨークで暮らしていた写真評論家の大竹昭子は、1995年のエッセイ集『旅ではなぜかよく眠り』で、藤圭子がアパート探しで訪れて来た時をこう描写しています。


… 今度は日本語の本を開いた。日本の著名な作家が書いたノンフィクションだった。この作家のことは知らなかったけれど、本人にあったらとてもステキな人で、たちまち好きになってしまった。もうすぐニューヨークに来るので会うことになっている。


しかし、妻のいる沢木耕太郎は結局ニューヨークに来ることはなく、藤圭子はまたも裏切られます。藤圭子はいつも誰かの愛情を必要とし、いつも誰かに愛されたいと願うのですが、いつも裏切られることになります。

不倫関係だった小林繁に裏切られ、これも不倫関係の沢木耕太郎に裏切られ、照實氏には不倫で何回も裏切られ、母親にはギャラを着服されて裏切られ、石坂まさをに裏切られ、娘の宇多田ヒカルには事務所の副社長を辞めてほしいと裏切られ、そのたびに藤圭子は精神のバランスを大きく崩しています。

藤圭子が裏切られたと思っていても、客観的に見ればそれが一方的な思い込みだったという場合もある点は、指摘しておきたいと思います。

照實氏は藤圭子が自殺した時、感情の変化が激しくなるようになったのは1988年だったと述べていますが、実際にはそれよりもっとずっと前からしばしば精神的に大きく不安定になった時期があります。ただし、それが長く続くことはありませんでしたが。

藤圭子の場合、強い精神的ストレスがかかると感情がひどく不安定になってしまいます。しかし、それは基本的にはごく親しい人間関係、親や配偶者、子供などとの間でしか表面化せず、仕事など公の場面ではそういった素振りを見せることはありませんでした。そのことが、外部の人が藤圭子と家族との関係を誤解してしまうことにつながっている面が確かにあります。

引退8ヶ月後といえば、1980年8月頃にあたります。藤圭子沢木耕太郎に裏切られたと知ったのはその頃でしょう。そうでなければ引退早々に復帰を決める理由がなさそうです。

沢木耕太郎と一緒に暮らせると思っていたのに、それが叶わないと知った時、強烈な見捨てられ感、孤独感に見舞われ、藤圭子はみずからの大物演歌歌手という職業的アイデンティティを、再び頼りとせずにはいられなかったのでしょう。そうしなければ精神的に持ちこたえられない状況だったのだと思います。

藤圭子大竹昭子に会って間もなく、作家の田家正子とアパートの部屋代をワリカンにして一緒にアパートに住みますが、田家正子が友人を連れて騒ぐようになり、その友人の中に照實氏がいました。

照實氏は藤圭子と最初に会った時、感情が不安定で類まれな気まぐれな人と、藤圭子を形容していますが、当時の藤圭子の側の事情からすれば当然といえます。

1980年8月頃に復帰を決めた藤圭子でしたが、実際の復帰は1981年7月になりました。復帰するまでに1年近くかかったのは、藤原氏藤圭子のテレビ定時番組出演を取り付けたりして、復帰した際にすぐに芸能活動ができるよう、準備万端整えるまでに時間が必要だったからです。