藤圭子の暗黒エネルギー

このブログの最終的な目的は、藤圭子がなぜあのような悲劇的な最後を遂げなければならなかったのか。その理由を解明することです。

「ネリカン」の眠れぬ夜の ”妄想” から生まれた 曽根幸明の「夢は夜ひらく」

藤圭子の「圭子の夢は夜ひらく」の作曲者として有名な曽根幸明は、1933年に東京・世田谷で生まれています。

以下は曽根幸明著「曽根幸明の昭和芸能放浪記」の記述を参考にしたものです。


父の宇野喜義は東京管弦楽団のバイオリニストであり、母のコマは近所の子供たちにピアノを教えており、曽根幸明は音楽一家の環境で育ちました。

父は曽根幸明にピアノのスパルタ教育を行いますが、曽根幸明によれば、父のスパルタ教育に耐えたことが、その後の音楽人生の原点となったと述べています。

高校生になると、早川和夫というギターの名手と知り合い、ギターに夢中になって、ダンスホールでバンド演奏を始めます。これが本格的な音楽人生の始まりとなりました。

早川氏は国士舘大学空手部の主将でもあり、親分肌で近隣の不良連中を集めて「早川組」という愚連隊を結成していました。

当時の進駐軍の若い米兵たちがやりたい放題に荒らし回っており、早川組はそうした米兵たちに喧嘩をふっかけていたのです。曽根幸明も早川組に加わり、ボクシングをやっていたこともあって、腕に自信がありました。

その早川組の資金稼ぎは、米軍の施設に忍び込んで使い終わった弾丸や金属製品などの盗みでした。早川氏は後にテキ屋の総本家・全桝屋連合会の会長にまで上り詰めています。

そうした盗みを繰り返していた曽根幸明は、警察に捕まり、練馬少年鑑別所(通称ネリカン)行きとなってしまいます。それが曽根幸明18歳のときです。このとき、9ヶ月間収容されていました。

この鑑別所ぐらしでは、夜9時が消灯時間ですが、すぐに眠れるわけでもなく、様々な ”妄想” が膨らんできたといいます。

まず浮かんでくるのはシャバの光景、次は好物ばかりのごちそうの数々。こうして夜になるとひらかれる夢の数々。こうした気分を口をついて出た曲に乗せて歌ってみたら、これがなかなかの出来だったのです。

 いやな看守に にらまれて
 あさも早(は)よから ふきそうじ
 作業終わって 夜がくりゃ
 夢は夜ひらく

昼休みにギターで弾き語りをして見せたら、皆に大受けとなり、面白がった同房の仲間たちが勝手に歌詞を追加していき、題名のないこの歌は何十番もある大作になっていました。

鑑別所を出た曽根幸明は、一時工場などで働いていましたが、バンドを組んでキャバレーで演奏するようになり、さらにはより条件の良いジャズ喫茶にギターとボーカルで出演するようになります。

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ジャズ喫茶「ACB」で歌う曽根幸明

曽根幸明が出演したジャズ喫茶「ACB(アシベ)」は、デビュー前の藤圭子がGSグループ「オリーブ」のボーカル・マミーのファンで、よく聞きに行ったところでもあります。

曽根幸明は1959年に「藤田功」の芸名で歌手デビューしますが、思うように売れず、1966年にテイチクレコードに移籍したことを契機に芸名を「藤田伸」に変え、再起を図ります。

そのときにネリカン時代の歌を思い出し、その詞を書き換えた「ひとりぼっちの唄」をレコーディングします。

 お前のカァさん 何処にいる
 いいや おいらは ひとりぽっち
 冷たい雪の 降る夜に
 淋しく死んでった

歌詞が暗すぎたためでしょうか、これは数千枚しか売れませんでした。ところが、この歌に小澤音楽事務所の敏腕プロデューサーが目をつけ、この曲を売出し中の園まりに歌わせたいと申し出ます。

当時、売れない貧乏歌手で生活に困窮していた曽根幸明は、この申し出を快諾します。プロデューサーは、元々の歌詞にあった「夢は夜ひらく」を題名とし、歌詞を全く変えてしまいます。

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作詞は中村泰士と富田清吾の共作です。生まれ変わった「夢は夜ひらく」は、園まりの甘いムードある歌声で、たちまちヒットします。そしてその4年後に、歌詞を変えた藤圭子の「圭子の夢は夜ひらく」の大ヒットにつながることになります。