藤圭子の暗黒エネルギー

このブログの最終的な目的は、藤圭子がなぜあのような悲劇的な最後を遂げなければならなかったのか。その理由を解明することです。

架空の人物「水沢忍」を「藤圭子」で現実化した石坂まさを

五木寛之の小説に「涙の河をふり返れ」という短編があります。

この小説は1967年11月に発表されたものです。五木寛之は1967年4月の「蒼ざめた馬を見よ」で直木賞を受賞し、社会的に注目されるようになっていました。

その五木寛之が発表した「涙の河をふり返れ」のあらすじは次のとおりです。

3年前にデビューし、最近人気が落ちてきている17歳の歌手「水沢忍」のマネージャーである黒木鋭介は、水沢忍の人気回復策を考えあぐね、それを旧知の仲の大学講師で社会心理学者でもある「私」に依頼してきた。水沢忍と対面した私は、彼女にどことなく〈薄幸〉な印象を受ける。黒木に私は「彼女には〈不幸の味〉といったものがある。人は自分より不幸な人間がいると安心する。問題は大衆が彼女の背後に〈不幸の味〉を感じるかどうかだ」と言う。間もなく、水沢忍に不幸な出来事が立て続けに起きるようになり、週刊誌がそれを盛んに報じる。彼女はすっかり憔悴してしまう一方で、レコードは記録破りの売れ行きを示すようになる。黒木が裏で罠を仕掛け、水沢忍に不幸が起こるように仕組んでいたのだった。黒木に騙されていたことを知った水沢忍は、一番信頼していた相手に裏切られ大きなショックを受ける。最後に黒木が言う。「おれはあの子の内側に終生消えないような傷跡を残しておきたかったのさ。そいつを持っている限り、彼女は決して幸福なスターにはならんだろう」

小説で「私」が水沢忍に会ったときの描写を引用します。

水沢忍のキラキラ光る挑戦的な目が私を見つめていた。その目の光り方を私は美しいと思った。彼女には、どことなく薄幸な感じがあり、それだけに、唇をきっと結んで怒りをたたえている表情には、独特の雰囲気があった。両手にあまる重いものを、痩せた体で必死に支ささえようとしている不幸な人間の威厳のようなものが、彼女のまわりには感じられた。
 (中略)
それは喩えていうならば〈不幸の味〉とでもいうべき情感だった。言葉づかいや、動作にも、そして歌の中にも、顔つきにも、それが深くしみ込んでいる。水沢忍という少女に、黒木鋭介が見たものは、その〈不幸の味〉だったのだろう。

「私」が黒木に向かって語ります。

「おれは最初にあの子に会ったとき、他の歌い手にはない何かを感じたね。そいつは〈不幸の味〉とでも言ったらいいのかもしれん。あの少女の周囲には、それが濃密に立ちこめていた。彼女は下積みの日本人の、弱さや、貧しさや、哀しさや、おろかさを、一身に体現してるように思えたんだ。つまり、あのときの水沢忍は、流行歌を必要とする弱い不幸な人間の共通のシンボルめいた感じがあった。あの子を見ていると、自分よりもっともっと不幸な人間がここにいる、といった安心感で心がほっと安らいでくるんだ。だから、おれはあの子はひょっとしたらスターになるかもしれんと言ったのさ。不幸ないじけた人間たちは、彼女の哀しい歌を聞いて、ああ、ここにも私と同じように、いや、私以上に不幸に泣いている仲間がいる、私は独りぽっちじゃない、といった連帯感を持つんだろう」

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石坂まさをが「涙の河をふり返れ」を読んでいたなら「水沢忍」と「藤圭子」がだぶって見えたであろうことは想像に難くありません。小説での水沢忍の描写は、藤圭子の見た目の印象とよく似ています。藤圭子を売り出すにあたって石坂まさをが、架空の人物である水沢忍の売出し戦略を、現実の藤圭子に適用したということはあり得ることです。

石坂まさをが作詞した「新宿の女」は、愛した男性にだまされ捨てられる不幸な女性ですし、「圭子の夢は夜ひらく」に至ってはことさらに不幸を強調する歌詞になっています。

石坂まさをは、藤圭子のデビュー当時に最も有名となった ”談話” を出しています。

「上京するまで白いごはんを食べたことがなかった」

もちろん、これは虚偽です。

石坂まさをだけでなく、藤圭子の売出しに関わった人たちは、人々が藤圭子に薄幸で寂しげなイメージを抱くように戦略を練ります。大下英治著「悲しき歌姫」で、デビュー当時に藤圭子のプロデューサーだった工藤忠義氏は、石坂まさをに次にようにアドバイスしています。

「イメージをつくらないといけないんじゃないかな。思い切った虚像をつくって、それを固定した形でPRしていかないとね……」

「貧しい生活をおくっている人たち、都会で寂しい生活をしているひとりぼっちの人たちの共感を得ないといけない。この子は、寂しさを代表する女の子にしようじゃないの」

藤圭子の母親である竹山澄子さんは、目が不自由でしたが見えないというわけではありませんでした。ですが、デビューにあたっては全くの盲目ということになっています。藤圭子のデビューにあたっては次の ”逸話” が流布されました。

 圭子は、盲目の母の手を引いて、夜の巷を流して歩いた
 寒さが身にしみて、白いギターを持つ手がふるえた

同じく「悲しき歌姫」によれば、工藤忠義氏は、藤圭子がTVに出演する際は、いつも悲しい顔をしていて笑わないように、と藤圭子に命じています。

藤圭子の売出しにあたっては、極貧生活の中で育ち、小さいときから浪曲師の両親の興行で歌って一家の生活を支え、東京に出てきてからも流しをして両親を養ってきた、といった、人々の同情を買うような来歴がことさらに喧伝されました。

五木寛之は、2013年12月発行の文庫本「怨歌の誕生」のあとがきでこう書いています。

しかし「涙の河をふり返れ」という物語を発表したあと、現実にそれとかさなる出来事がおきようとは、私も予期していなかった。

「涙の河をふり返れ」は1967年に書いた。

『不幸の味』をイメージ化し、戦略的に一人の少女歌手を演出していこうするプロデューサーと、その友人(私)の物語である。

日本人の意識下に渦巻くルサンチマン(怨念)をすくいあげ、それを商品化することは歌謡曲のルーティン(定番)である。韓国の言葉では「恨(ハン)」がそれに似ている。しかし、それを一つの戦略戦術として徹底的に実生活をもコントロールしようとする演出家は、実際にはいなかったと言っていい。

ところが、その小説を物語としてではなく、現実の指針として読んだ人物がいたのだった。

 (中略)

私はその後、一度だけ石坂まさを氏と会って、かなり切迫した会話をしたことがあった。そこはカメリアという、いまはないラウンジで、なぜかくわしい話の内容はほとんどおぼえていない。

「わたしのやったことは、五木さんに責任があるんです」

と、彼は言い、私が言下にそれを否定したことだけは記憶に残っている。彼が「涙の河をふり返れ」の中の文章の一部をすらすらと口にしたときは、さすがに複雑な気分だった。

石坂まさをが言う「わたしのやったこと」が何を指すのかが知りたいものですが、そのことに関して五木寛之に責任があると主張し、「涙の河をふり返れ」の文章の一部を口にしたといいますから、それが水沢忍の売出し戦略に関係したものであることがうかがえます。

そしてそれを藤圭子の売出し戦略に適用した石坂まさをが、その結果として何らかの困った問題が起きて、そのことで五木寛之に責任を転嫁しようとしたということはあり得ることです。

困った問題とは、藤圭子に張り付いた「怨歌」の歌い手とか、〈不幸が似合う歌手〉というイメージが、その後の歌手としての可能性を狭める結果となったことを意味しているのかもしれません。

ただ五木寛之が最初に「怨歌」という言葉を使ったのは藤圭子の歌に対してではありません。1966年10月に発表した小説「艶歌」の最後で、次のように書いているからです。

革ジャンパーの背中を見せて、高円寺龍三は、録音調整室を出ていった。

津上は独りで椅子に座っていた。階段を降りていく高円寺の足音が聞こえた。

ガラス窓の向こうに、スタジオはひっそりと静まり返っていた。津上はそこに、暗い〈底なしの沼〉を見た、と感じた。その闇の底から、あの怨念に満ちた、不気味なメロディーがかすかに湧きあがってくるのを、彼はきいた。それは、地の底から津上に呼びかける終わりのない怨歌の詠唱のように思われた。