藤圭子の暗黒エネルギー

このブログの最終的な目的は、藤圭子がなぜあのような悲劇的な最後を遂げなければならなかったのか。その理由を解明することです。

本当は目が見えていた 藤圭子の母

藤圭子の母・竹山澄子さんの目が悪いことについて「悲しき歌姫」では次のような記述がなされています。

母・澄子の目が悪いのは生まれつきではなく、戦時中に軍需工場で交換手として働いていたとき目を痛めたせいである。
のち純子が小学校の三年生になったころ、澄子の視力は、栄養不足と、過労がたたっていっそう弱まった。お金があって、貧乏な暮らしさえしていなければ、早期治療で治っていたかもしれない。
澄子は極端に視力が落ち、物の形と色がボンヤリとしか見えないようになって、ようやく札幌の北海道大学附属病院へ診察を受けに行った。

この記述は完全な嘘です。

澄子さんの目の病気である網膜色素変性症の原因が遺伝だということは昔から知られていました。網膜色素変性症では、栄養不足と過労で視力が弱くなることはあり得ません。この疾患の治療法は存在せず、手術で治ることもありません。

症状は長年をかけて視野が徐々に狭くなります。症状が進むにつれて、ちょうど紙を筒状に丸めて覗いたときのように視野が狭くなり、中心部しか見えなくなります。中心部の視力が失われるようになるのは症状がかなり進んだ場合です。

同じ著書の別の箇所には藤圭子の話としてこんな記述があります。

「いいえ、ちょっと目が不自由で、網膜色素変性症っていって、うすぼんやりと物の形がわかるくらいで、このまま手術せずに放っておくと、いつかは失明するそうです」

栄養不足と過労で視力が弱ったというのは、デビューにあたって同情を集めようと、ことさらに貧困だったことを強調するための作り話しです。手術が必要というのも同じ作り話です。

網膜色素変性症は多くの場合、その症状の進行は極めて緩慢で、80歳代になっても生活に不便のない視力を維持している人もいます。症状の進行の早さには個人差がありますが、この疾患で全く見えない医学的失明状態になる人はかなり少ないことが知られています。

藤圭子の話には、網膜色素変性症に特徴的な症状である視野狭窄の話が出てこないので、この話もどこまで本当のことを話しているのか疑問があります。

次の動画では、澄子さんが盤面を見つめながらパチンコをしています。


藤圭子 プライベートな動画

 網膜色素変性症は多くの場合、症状の進行が極めて緩慢であり、この動画から、澄子さんは目が見えていたと断言できます。最初に説明したように、網膜色素変性症の特徴的な症状は視野の狭窄です。視野の中央は普通に見えている人が多いのです。

このことは澄子さんと日常的に暮らしていた藤圭子も知っていたはずですが、藤圭子は1968年に渡邉正次郎に母を紹介する際に「母は目が見えないんです」と話しています。月刊明星1970年6月号でも藤圭子は、母は目が見えないと話しています。

週刊現代 2013年9月14日号で藤三郎氏はある時、藤圭子から電話で「お兄ちゃん、私は騙された。お母さんは目が見えるのよ」と聞かされたといいます。おそらくこの時期は、1988年に藤圭子が精神のバランスを大きく崩した時だと思われます。

これは絶縁していた父から聞かされたことだったのでしょう。藤圭子がその話を信じたのにはそれなりの確たる根拠があったからだと思います。藤圭子が澄子さんと絶遠することになった理由や経緯については、改めて別の記事で取り上げることにします。

藤圭子の母の目が見えるという点に関しては、次のエピソードも興味深いものがあります。

渡邉正次郎の半生記「芸能人、ヤクザ、政治家は弱い者イジメが大好き」によれば、1970年頃、RCAの榎本襄氏から藤圭子の母親は目が見えるのではないかと尋ねられたといいます。

榎本襄氏が母親に電話すると「純子はいま○○という喫茶店に行ってるんで。ちょっと待ってね、電話番号を見るから」って言われたというのです。

ここまでくれば誰でも藤圭子の母は目が見えていたと分かります。目が不自由ではあったことは確かですが、周りの状況は目で見て把握できていたのです。