藤圭子の暗黒エネルギー

このブログの最終的な目的は、藤圭子がなぜあのような悲劇的な最後を遂げなければならなかったのか。その理由を解明することです。

藤圭子を騙してキングレコードからのデビューを撤回させた石坂まさを

藤圭子が鳳企画と契約した時期

渡邉正次郎の半生記「芸能人、ヤクザ、政治家は弱い者イジメが大好き」によれば、藤圭子が鳳企画と契約し、キングレコードからデビューさせることが決まった時期については記述がありません。

ですが、渡邉正次郎が初めて藤圭子に会った時期は、鳳企画の林専務が「思案橋ブルース」のヒット予想を依頼しに、渡邉正次郎を初めて訪問したエピソードの記述から推定することが可能です。

そのエピソードについて、同書では「思案橋ブルース」のレコードを聴いて「大ヒット間違いなし」と予想したのでコロンビアから発売になったと述べています。「思案橋ブルース」の発売は1968年4月25日です。ですので「思案橋ブルース」のヒット予想を依頼されたのは1968年3月頃でしょう。

そのエピソードの記述の後に、渡邉正次郎が初めて藤圭子に会う際に鳳企画の林専務を同行させる話が書かれていますが、それについて「ふと、前述の鳳企画の林専務の顔を思い出した。あれから結構親しくなっていたのと、彼の会社は出来たばかりで所属歌手がいないことも聞いていたからだ」との記述があります。

これらの記述から、渡邉正次郎が最初に藤圭子に会った時期は、1968年4月以降まもなく、5月〜7月頃でしょうか。藤圭子の才能を見抜いた渡邉正次郎は、藤圭子キングレコードのオーデションを受けさせて合格させます。その時期は、会ってまもなくとあり、1968年6月〜8月頃と思われます。

藤圭子石坂まさをが知り合った時期

一方、藤圭子石坂まさをと知り合った時期については、大下英治著の「悲しき歌姫」に1968年10月とみなせる記述があります。大下英治の別の著書である「心歌百八つ」には藤圭子石坂まさをが自宅に居候させ、レッスンを開始した時期が1968年秋とあります。石坂まさを著の「宇多田ヒカル母娘物語」には、石坂まさをが最初に藤圭子に会った時期を1968年9月と記述しています。

「流星ひとつ」で藤圭子は、合格したキングレコードを辞退するために父に断りに行ってもらったと話していますが、渡邉正次郎によればそうした事実はなく、オーディション合格の数ヶ月後に、藤圭子が鳳企画に到底飲めない要求をしてきたために、契約を破棄せざるを得なくなり、契約を破棄した数日後に、藤圭子の父がキングレコード赤間制作部長に「娘をどうしてもデビューさせて下さい」と尋ねて来たといいます。

藤圭子の父が、ペーペーの石坂まさをを信頼して、やっと合格したキングレコードに、自ら辞退を申し出るとはおよそ考えられないことです。

「原盤制作」を言い出した藤圭子

鳳企画の伊藤社長に、藤圭子が「原盤制作にしたい。原盤制作の方が儲かるし、給料でなくすべて歩合にしたい」としつこく要求してきた時期は、渡邉正次郎著の同書によれば、藤圭子が鳳企画と契約し、キングレコードからデビューさせることが決まった1968年6月〜8月頃から、数ヶ月が過ぎた時だとしています。1968年9月〜12月頃でしょうか。

当時「原盤制作」という言葉は音楽業界ではまだあまり知られておらず、渡邉正次郎も最近知ったばかりだといい、儲かるかどうかさえも分からなかったといいます。ましてや藤圭子が個人的に知っているはずがありません。

藤圭子石坂まさをから入れ知恵されたとしか考えられません。石坂まさを藤圭子と知り合った時、藤圭子からすでに鳳企画と契約し、キングレコードからデビューすることを聞かされていたと思われます。それを撤回させるために石坂まさをは「原盤制作」の話を持ち出し、原盤制作にすれば何倍もお金がたくさん稼げると藤圭子に持ちかけたのでしょう。もちろん石坂まさをの側に、多額の資金が必要で個人では無謀な原盤制作をやる意思など、初めからあるはずがありません。

原盤制作をやるためには資金が必要という理由で、藤圭子に鳳企画から受け取っていた毎月40万円(現在価値で約200万円)の給料を差し出させたのでしょう。藤圭子は鳳企画から毎月40万円の給料をもらいながら "流し" を続けていました。喉が荒れるからという理由で "流し" を止めるよう言われていたにも関わらず、給料をすべて石坂まさをに差し出していたため、契約違反となるリスクを冒しながらも "流し" を続けざるを得なかったものと思われます。

2013年9月11日付けのアサ芸プラスによれば、藤プロ(後の澤ノ井音楽事務所)が原盤権を持っていたとあります。著作権の管理業務を行う音楽出版社の日音(旧日本音楽出版株式会社)の管理楽曲一覧に「新宿の女」と「女のブルース」はありますが、「圭子の夢はよるひらく」や「京都から博多まで」はありません。おそらく「圭子の夢はよるひらく」以降から藤プロが原盤権を持つようになり、原盤制作を行うようになったものと思われます。

鳳企画が藤圭子との契約を破棄した顛末

渡邉正次郎は鳳企画の伊藤社長からプロダクションを止めたいと言われます。伊藤社長によれば藤圭子が原盤制作と言い出したので契約を打ち切りたいといいます。この場面を渡邉正次郎の同書から抜粋して引用します。


この当時、原盤制作などという言葉は業界紙オリコン=芸能市場調査」の編集長でもまだ知ったばかりで、かろうじて理解できる知識しかなかった時代だ。

それなのに北海道から流れ流れて東京にきた、ホームレス寸前一家の10代の小娘が "原盤制作" を口にしたという。これだけでも驚いたが、「阿部純子が『原盤制作の方が儲かるし、給料でなくすべて歩合にしたい』って言い出したんです」と伊藤社長。

正直、驚いた。原盤制作は儲かる…儲かるかどうか私でさえ知らない。誰がそんな入れ知恵を…。

「これから阿部純子がくるんです。先生に立ち会っていただきたくて…」と社長。横にいる林専務は相変わらず黙ったままだ。どうやら私が預けた以降、何かいろいろあったようだ。

しばらくして純子が中年女の手を引きながら事務所に入ってきた。

一瞬、純子は驚いた顔になった。まさか私がいるとは思いもしなかったのだろう。

「渡辺先生、母です」

「…」

「母は目が見えないんです」

これにも驚いた。

やがて話し合いが始まった。私は口を出す必要がないから黙って見ていた。伊藤社長は「契約を止めます」としか言わない。

すると阿部純子は事前に言われていたのだろう、紙袋から契約書を取り出すと、私の目の前でその契約書をビリビリに引き裂いて床に叩きつけた。

これには温厚な私は怒った。「オイ、お前、その態度は何だ! お前がそうなら、私の目の黒いうちは絶対にデビューさせない!」と怒鳴りつけた。

2人は黙ったまま下を向いていて、何も言わずに帰った。その後、すぐ、事情を話し、キングレコードのデビューをストップしてしまった。

このトラブルから一年後くらいだろうか。霞が関にあったRCAレコードに出向いた時、エレベーターを降りると目の前に阿部純子が立っていた。

本人は真っ青になった。直立不動。金縛り状態。

「お前、何だ?」

「…ハイ、ここからデビューさせてもらうことに…」

「何! 私の目の黒いうちは絶対にデビューさせない!」と告げ、空いていた宣伝課長の椅子に座るとスポーツ新聞、芸能週刊誌に片端から、「RCAから阿部純子というのがデビューするが、あなたのところは協力する? 私は絶対許さんから」と電話をかけた。

電話を受けた連中は困った。音楽業界一の直感力の持ち主で、ヒット予想は百発百中。記事に登場してもらわなければならない渡邉正次郎の顔は立てなきゃならない、レコード会社の顔は立てなきゃならない…。

すると3日後、RCAレコードの榎本襄というディレクターと、汚い中年男が私がオリコンから独立したばかりの事務所を訪ねてきた。

2人は階段の下の道路で這いつくばっている。頭を道路にくっつけたまま。私は判らない。

「何なんだよ、君たちは?」

「正次郎先生、阿部純子をデビューさせてもらえませんか」

榎本とかいうディレクターが泣かんばかり。

「作詞家の石坂まさをも連れて来ました」

そんな売れてもいない作詞家は知らない。隣の汚い男がそのようだ。


渡邉正次郎は、阿部純子の一家4人揃って、鳳企画の伊藤社長と林専務に詫び状を出すことを条件に、阿部純子のデビューを許します。これで藤圭子が大手を振ってデビューすることができるようになったのです。

石坂まさをに騙された藤圭子

石坂まさを藤圭子に持ちかけた原盤制作の話はどうなったのでしょうか。おそらく藤圭子が大ブレークする中でウヤムヤにされたのでしょう。藤圭子石坂まさをに差し出したと思われる現在価値で一千万円近いお金はどうなったのでしょうか。これも売り出しキャンペーンで使ったといいくるめられたのかもしれません。

この件で藤圭子は、石坂まさをに騙された被害者です。

デビュー後の藤圭子は歩合制ではなく月給制で、デビュー年は月2万円、翌年3月から5万円、6月から8万円、「圭子の夢は夜ひらく」が大ヒットした後の11月になってもようやく50万円です。

何も稼いでいないデビュー前にも関わらず、鳳企画では月40万円、現在価値で約200万円を受け取っていました。石坂まさをの事務所と待遇面の違いは雲泥の差です。この時、藤圭子は騙されていたことに気付いたはずです。ですが、大スターにしてくれたことで石坂まさをには強く言えなかったのでしょう。

藤圭子が1981年に歌手復帰した時、芸能記者の本多圭氏に、石坂まさをに金銭面でも労働面でも過酷さを強いられたと話しています。2006年頃には、石坂まさをを「この世で一番憎んでいる」と述べています。そうしたことの理由のひとつには、このエピソードも関係しているものと思われます。

石坂まさをに何らやましいことが無いのであれば、藤圭子キングレコードのオーディションに合格していたエピソードを隠す必要はありません。しかしながら、石坂まさをはそのことを死ぬまで隠し通しました。