藤圭子の暗黒エネルギー

このブログの最終的な目的は、藤圭子がなぜあのような悲劇的な最後を遂げなければならなかったのか。その理由を解明することです。

藤圭子を初めてレコード会社に契約させたのは渡邉正次郎であって石坂まさをではない

藤圭子は亀戸、錦糸町界隈の夜の街で "流し" の歌手をしていた1968年頃、オリコンの前身「芸能市場調査」編集長の渡邉正次郎氏と出会い、芸能界に足を踏み入れる。だが、藤圭子が「新宿の女」(1969年)でデビューするまでには紆余曲折があった。

独特の感性を駆使して「ナベショウのヒット予測は百発百中」と謳われた渡邉氏。ある夜、旧知のキャバレー店長から「いい子がいる」と電話が入り、芸能事務所「鳳企画」の幹部と一緒に亀戸に出向いた。

藤圭子が『阿部純子です』とあいさつに立った瞬間、まだ一曲も聴かないうちに『この子はスターになる』と確信しました」(渡邊氏)

パンチの効いたハスキーボイスは、化粧っ気のないオカッパ頭と貧相な風体からは想像もつかなかった。渡邉氏の "お墨付き" を得て、藤圭子は鳳企画と月給40万円で契約した。同時期、鳳企画所属のちあきなおみが月給28万円、オリコン社員は3万円という時代。まさに破格の待遇だった。

渡邉氏の紹介でキングレコードからデビューが決まるのは、亀戸の夜からわずか1ヶ月後のことだ。ところがデビュー話は "白紙" にされる。原因は藤圭子一家の "生業" だった。

「鳳企画の社長は、藤圭子一家に『もう "流し" はするな』と釘を刺し、その分を上乗せして高給を支払ったのです。だが、藤圭子が新宿で "流し" を再開したことが分かり、藤圭子は契約違反でクビになった。私との関係からキングレコード藤圭子との関係を断ち切った」(渡邉氏)

渡邉氏によると、この頃に藤圭子石坂まさを氏と知り合い、RCAデビューが固まると、石坂まさを氏は渡邉氏に土下座して陳謝したという。藤圭子との契約トラブルを機に、鳳企画の社長は芸能事務所経営に嫌気がさして廃業していたため、社長への "詫び状" を条件にデビューが許された。

サンデー毎日 2013年9月15日号 より


この渡邉正次郎の話は不正確です。取材を受けた当時、執筆中だった自著で藤圭子との関わりについて詳しく書いているので、ここでは端折って説明したのかもしれません。

サンデー毎日の取材に対し、どうでもよいことを話し、肝心のことを話していません。読者はこの記事を読んでもよく理解できないでしょう。

"流し" をしないという約束を破ったというだけで契約解除はあり得ません。鳳企画の社長が "流し" をするなといったのは、"流し" をしていると喉が荒れるからという理由でした。契約解除の本当の理由は何か?

月給40万円、現在の価値に換算して約200万円もの大金を毎月貰っていながら、藤圭子はなぜ微々たるお金しか稼げない "流し" を、契約違反のリスクを冒してまで続ける必要があったのか?

RCAデビューが決まった時、石坂まさをは、なぜ渡邊氏に土下座までしなければならなかったのか?

これらを理解するには、キングレコードからデビューすることが決まってから、石坂まさを藤圭子との間で交わされたある "秘密の約束" を理解する必要があります。

石坂まさをは、「きずな」や「宇多田ヒカル母娘物語」、大下英治石坂まさをに取材した「悲しき歌姫」、同じく「心歌百八つ」で、藤圭子が最初にキングレコードからデビューすることが決まっていた事実を、ことごとくひた隠しにし、無かったことにしています。結局、石坂まさをはその事実を墓場まで持って行ってしまいました。

石坂まさをにとって、そのことは死んでも人には言えない重大な後ろめたい "嘘" が関係していたのです。そのことに藤圭子も関わっていますが、藤圭子はむしろ石坂まさをに裏切られた被害者です。後年になって藤圭子は、石坂まさをを強く恨むようになりますが、それにはこの出来事も関係しているものと思われます。

「流星ひとつ」で藤圭子は、キングレコードのオーディションに合格したことを話していますが、その内容は正しくありません。その当時、事実をありのままに話すことは、藤圭子にまだ石坂まさをに対して "いい子" でいたいというためらいがあって、できなかったのでしょう。

石坂まさをが、死んでも人には言えなかった重大な後ろめたい "嘘" については、別の投稿で明らかにします。