藤圭子の暗黒エネルギー

このブログの最終的な目的は、藤圭子がなぜあのような悲劇的な最後を遂げなければならなかったのか。その理由を解明することです。

藤圭子 「裸電球と畳1枚」に秘めた「怨」

雑誌記事から抜粋して引用します。 

藤圭子 「裸電球と畳1枚」に秘めた「怨」 "歌姫の原点" 北海道・旭川ルポ 

衝撃の自殺から10日余り。「怨歌の歌姫」と呼ばれた歌手、藤圭子(本名・宇多田純子、享年62歳)の原点を北海道にたどった。

「ここは昔、田んぼや荒地の多い、市街地の外れで、農家の空き家がポツンとありました。純子の一家はそこを借りて住んでいました」

札幌から北に200キロの名寄市。「ニュー富士屋ホテル」を経営する竹山利男さん(65)は、今は市の公園となっている青々とした芝生の一角を指差した。竹山さんの父幸菊(ゆきぎく)さんは、藤の母の実兄(いずれも故人)。竹山さんは藤の4歳上のいとこにあたる。

藤は1951年、3人兄妹の末っ子として岩手県一関市に生まれた。父壯(つよし)(故人)は浪花節を歌う浪曲師、母澄子は、夫の歌の伴奏を担う "盲目" の三味線弾き。地方巡業を生業とする旅芸人の一家だった。

 (中略)

「私のオヤジも目が不自由で、マッサージ師であり浪曲師、興行師でもあった。戦時中、東京の浅草から、コンブなどの行商をしていた祖父らがいた北海道に疎開して、名寄に落ち着いた。純子の一家も純子が生まれてすぐ、岩手からオヤジを頼って来た。浪曲だけでは食えないので壯さんは紙芝居を始めたが、2、3年で旭川に移った」(竹山さん)

旭川市は名寄の南75キロにある道内第2の都市。藤はここで中3までの大半を過ごした。小4の時の担任、小田栄一郎さん(81)は鮮明に覚えていた。

「成績は常に上位。宿題を忘れた子が朝、あの子の机に集まる。すると紙にスラスラと答えを書いて、『はい、これ』と渡して行く。だから、皆が一目置く存在でした」。小田さんは感心する一方で、貧しさを理由にした "いじめ" から身を守るための知恵のようにも思えたという。

「彼女は学校で集めるお金を持って来ることができなかった。集金日は必ず休む。春夏秋冬いつも同じ薄手の服を着ていて、寒い日は走って帰る。保護者たちに古着を持ち寄ってもらい、それを風呂敷に包んであの子の家に届けたこともありました」(小田さん)

家は粗末な木造アパートの2階の一室だった。

「畳が1枚だけあって、あとは板敷き。天井から裸電球がぶら下がっていた。『両親の巡業がある』などと家庭訪問を断られ続けた理由が分かった」(同)

 (以降次回に続く)

サンデー毎日 2013年9月15日号より

この記事ではこれまで知られていなかった事実が明かされています。藤圭子岩手県一関市で生まれて、その後に北海道の旭川市に移ったとされていました。実際には初めに名寄市に移っていたことが分かります。藤圭子が「流星ひとつ」で「もしかしたら、うんと小さいときに、違う町に住んでいたかもしれないけど…」という違う町とは名寄市のことでした。

藤圭子の従兄弟の話では、その父も目が不自由とのことです。藤圭子は2000年の時点(49歳)で既に目が不自由であることをスポニチの圭子番記者である阿部公輔氏に打ち明けています。このことから叔父、母、藤圭子の3人が網膜色素変性症を発症していることが分かります。これは「常染色体優性遺伝」で見られる遺伝の仕方であり、したがって宇多田ヒカルも50%の確率で網膜色素変性症を発症する可能性があることになります。

「流星ひとつ」で生活保護を受けていたと話していますが、学校の集金日には必ず休んだり、春夏秋冬いつも同じ薄手の服を着ているとか、深刻な貧困の様子がうかがえます。ですが旭川時代はまだましでした。名寄時代が最も厳しい極貧困状態だったようです。