藤圭子の暗黒エネルギー

このブログの最終的な目的は、藤圭子がなぜあのような悲劇的な最後を遂げなければならなかったのか。その理由を解明することです。

大物政治家の圧力はあったのか 藤圭子 疑惑の紅白出場

藤圭子は紅白に1970年、1971年、1972年と3回連続で出場しています。1973年と1974年は出場できず、1975年と1976年に再び出場しています。

そこで問題となるのが、1975年と1976年の紅白出場です。1975年の紅白出場は、NHKに対して大物政治家からの圧力があったのではないかと、週刊誌が報じました。当時、私はそのことを覚えています。歌手の名前は伏せられていましたが、今から思えば、それは藤圭子のことだと分かります。

なぜ圧力説が言われるようになったかといえば、当時の藤圭子オリコンチャートを見れば理解できます。

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1975年4月発売の「生きてるだけの女」は、オリコン最高73位でした。紅白には女性陣として24組出場できます。オリコン最高73位の実績で、しかも紅白出場が途切れている藤圭子が紅白に出場することは到底無理な話です。

しかし、どういうわけか藤圭子は紅白に出場が決定します。これでは圧力があったといわれても当然と思われます。1975年の紅白で藤圭子が歌ったのは「さすらい」でした。この曲はオリコン100位にも入っていません。藤圭子はこの紅白でほとんど誰も聞いたことがない、まったく人気が出なかった「さすらい」を歌ったのです。


藤圭子♥さすらい('75年紅白歌合戦)

このとき、藤圭子はどういう思いで「さすらい」を歌ったのでしょうか。

藤圭子について「流星ひとつ」で沢木耕太郎が「水晶のように硬質で透明な精神」と理想化したとおりの人間であったのであれば、全くヒットがない状況で「大物政治家からの圧力」による出場とまで報道され、そんなことを言われてまで紅白に出たいとは思わなかったでしょう。自ら潔く紅白出場を辞退したはずです。

しかし、藤圭子は紅白出場を辞退することはありませんでした。藤圭子は紅白出場に異常ともいえる強烈な執着を持っていました。そのことを物語るエピソードを「流星ひとつ」で藤圭子自身が話しています。

デビュー前から無類の麻雀好きだった藤圭子は、その麻雀仲間に、大物政治家で元衆議院議長自民党議員 船田中の秘書を務めている蓮実進氏がいました。藤圭子が蓮実秘書を介して船田中に紅白出場への圧力を依頼した可能性は十分あり得ると思います。