藤圭子の暗黒エネルギー

このブログの最終的な目的は、藤圭子がなぜあのような悲劇的な最後を遂げなければならなかったのか。その理由を解明することです。

「圭子の夢は夜ひらく」の歌唱

「圭子の夢は夜ひらく」は曽根幸明の作曲ですが、園まりなどに提供している「夢は夜ひらく」とでは楽譜が違っているでしょうか。

「夢は夜ひらく」はハ短調(Cマイナー)ですが、「圭子の夢は夜ひらく」はイ短調(Aマイナー)です。イ短調ハ長調平行調の関係にあり、その音階に短調特有の暗さは感じられません。

「夢は夜ひらく」と「圭子の夢は夜ひらく」の楽譜を添付しています。

 

園まり 「夢は夜ひらく」

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藤圭子 「圭子の夢は夜ひらく」

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「圭子の夢は夜ひらく」は曽根幸明手書きの楽譜です。音程が異なる他に、5小節目の音符が異なっています。

これはその小節が「夢は夜ひらく」では7文字ですが、「圭子の夢は夜ひらく」は8文字と字余りなので、1小節に収めるために変えたのでしょう。その5小節目の最後の音程が「圭子の夢は夜ひらく」では高くなっています。それ以外は同じです。

ではそれぞれの歌唱を聴いてみましょう。まずは園まりからです。

甘ったるく、色気たっぷりの歌唱です。藤圭子が「流星ひとつ」で「もたれかかるような感じで歌いたかった」と言っていたその感じが園まりの歌唱によく出ています。

ですが、「圭子の夢は夜ひらく」とはまったく印象が違います。この違いには、歌詞の内容の違いと声質の違いが影響していることが考えられます。

 

では、藤圭子の「圭子の夢は夜ひらく」を聴いてみましょう。1970年の渋谷公会堂ライブです。

藤圭子の歌唱は曽根幸明の楽譜と大きく異なっていることが分かります。最初の出だしが楽譜では

あかーくさーくのーは けーしのーはなー ですが、藤圭子
あかくーさくのはー けーしのはなー と歌っています。

けーしのはなー のところはアルバムでは けしのはなー と、けを伸ばさずに歌っています。アルバムとステージで音の長さが違って歌っているのはよくあることです。またステージによっても違っています。

アルバムでの歌唱のみにいえることですが、この出だしの音程が楽譜よりも高くなっています。楽譜ではラですがミに聞こえます。1番を通して楽譜よりも音程が高く、2番になると楽譜通りの音程で歌っています。また1番の出だしは声色を使っています。幼子のような甘ったるい声色で歌っています。声色を使えることはプロ歌手では普通のテクニックです。ですが、この歌詞で甘い声色を使うのは藤圭子だけかもしれません。

2フレーズ目の楽譜は

しろーくさーくのーは ゆーりのーはなー ですが、藤圭子
しーろくーさくのはー ゆーりのはなー と歌っています。

1フレーズ目であかくー だったところを しーろくー に変えています。なぜ1フレーズ目と同じ音の長さの しろくー ではないのか。藤圭子がそう歌いたかったのでしょう。

3フレーズ目の楽譜は

どーさーきゃいーいのーさ こーのわーたしー ですが、藤圭子
どーさきゃーいーいのさー こーのわたしー と歌っています。

4フレーズ目だけは楽譜通りです。ですが、思い切り引っ張っており、そのため最後の音が短くなっています。

1番から6番を通して、同じ小節であっても異なる音程で歌っているところがあります。例えば1番の5小節目 どーさきゃいーいのさー と2番の かこはーどんなにー で、最後の音程が1番では楽譜通り高くなっていますが、2番以降では低いか同じです。これはアルバムでも同様です。楽譜がそうなっているのか、藤圭子の判断でそう歌ったのかは分かりません。

藤圭子は歌唱の大部分で楽譜通りには歌っていません。楽譜通りの歌唱ではゆったりとした流れが感じられますが、藤圭子の歌唱ではそうしたゆったりさ、藤圭子が「流星ひとつ」で、表現したかったと言っていたもたれかかるような感じはまったくありません。逆に思い切り「凄み」を出してい歌ってます。藤圭子が「流星ひとつ」で言っていることは真っ赤なウソです。「流星ひとつ」で藤圭子は、これ以外にもいくつもウソをついています。

ここまで楽譜と異なる歌唱だということを曽根幸明は知っていたのでしょうか。RCAの音楽ディレクターだった榎本襄氏によれば、藤圭子は「作家がいると気を遣ってしまって歌えない」と言って歌わなかったといいます。しかし、これだけ元の楽譜から崩してしまうと、それが理由で曽根幸明の前で歌わなかったのかもしれません。

「圭子の夢は夜ひらく」の楽譜がネットで何種類か入手できますが、バラバラです。中には曽根幸明手書きの楽譜とは全く異なり、耳コピで採譜したと思われる楽譜もあります。楽譜がバラバラなのは、藤圭子の歌唱が元の楽譜と大幅に違っていることが原因なのでしょう。

もし、藤圭子の歌唱に「圭子節」とでもいえるものがあるとすれば、それは作曲家の意図を超えて、楽譜とは異なる音の長さで歌う「歌いまわし」で、歌に凄みや思い詰めた感じ、逸脱する感じ、力強さ、スケール感、などを表現した歌唱法だといえます。