石坂まさをと藤圭子
2000年から藤圭子番となったスポニチの阿部公輔氏が2006年頃の藤圭子について話しています。2013年10月4日のアサ芸プラスから引用します。一方、圭子はデビュー当時のキャッチフレーズだった〈怨念〉を、何度となく言葉にしている。「この世で一番、憎んでい…
藤圭子の収入は歩合制ではなく月給制でした。大下英治著「悲しき歌姫」によれば、デビュー当初は2万円、翌年3月からは5万円、6月からは8万円、11月には50万円と昇給していったとあります。50万円は別として、それまでの藤圭子の月給は圧倒的な人気に見合わな…
藤圭子は1968年の秋頃に石坂まさをと知り合い、住み込みでレッスンを受けるようになります。「流星ひとつ」で藤圭子は初めて石坂まさをと出会ったときの印象を、自分に似ていると話しています。石坂まさをの、世の中の辛酸をなめ尽くしたその雰囲気が自分と…
DVD「田原総一朗の遺言 ~藤圭子/ベ平連~」で、石坂まさをが「圭子の夢は夜ひらく」を作詞した時のエピゾードを、電話で田原総一朗に話しています。2011年末と思われる収録ですので、石坂まさをの体調はあまりよくないように聞こえます。「その時、僕、熱…
藤圭子のデビューにあたり、石坂まさをはデビュー戦略を練りますが、その際に参考にしたのが、1967年に五木寛之が発表した小説『涙の河を振り返れ』です。このことについてはこちらの記事 に書いています。藤圭子の売り出しにあたって、ことさらに藤圭子が貧…
藤圭子は紅白出場に異常ともいえるほどの執着をもっていたエピソードがあります。 「流星ひとつ」で、1973年の紅白に選ばれなかったとき、藤圭子が、NHKは藤圭子を必要としていないのだから来年のNHKに出るのはやめようとマネージャーに迫ったと話しています…
藤圭子の代表曲のひとつである「新宿の女」は、特定の人物をイメージして書かれています。作詞した石坂まさをは、1999年刊の自著「きずな」で「新宿の女」を作詞した場面を次のように書いています。このとき、私の頭のなかには、はっきりと母・千恵の姿が浮…
”藤圭子” という芸名を名付けた由来については、比較的よく知られていることと思います。名付け親たる石坂まさをは、1999年刊行の自著「きずな」で、次のように芸名の由来について説明しています。 私は『花菱エコーズ』を売り出すときに世話になった『日本…
五木寛之の小説に「涙の河をふり返れ」という短編があります。 この小説は1967年11月に発表されたものです。五木寛之は1967年4月の「蒼ざめた馬を見よ」で直木賞を受賞し、社会的に注目されるようになっていました。 その五木寛之が発表した「涙の河をふり返…
藤圭子が鳳企画と契約した時期 渡邉正次郎の半生記「芸能人、ヤクザ、政治家は弱い者イジメが大好き」によれば、藤圭子が鳳企画と契約し、キングレコードからデビューさせることが決まった時期については記述がありません。 ですが、渡邉正次郎が初めて藤圭…