歌手デビュー後のエピソード

喉の手術で藤圭子の声はどのように変わったか

藤圭子は1974年5月に喉を手術しています。藤圭子は肥厚性声帯炎という歌手の職業病とでもいう疾患を患っていました。歌い続けると喉が炎症を起こし、声がかすれて歌えなくなってしまうのです。その原因とされた喉のポリープを切除する手術を受けたのですが、…

足を引きずるようにしてスタジオに向かった藤圭子

藤圭子がデビューして人気が沸騰した頃の藤圭子のステージ出演前の様子を1970年6月発行のサンデー毎日が報道しています。抜粋して引用します。 NETテレビ局の化粧室ーーもちろん個室ではないーーロッカーが林立し、鏡台がせり合うようにあるその前で、藤圭子…

ニューヨークで沢木耕太郎を待っていた藤圭子

アサヒ芸能 2013年10月31日号から抜粋して引用します。話している内容の時期は1980年の秋頃と思われます。 「私が『なぜ、ニューヨークに来たの?』と彼女に尋ねると、『実は、沢木耕太郎を待っています』と、答えたんです」本誌の直撃取材に、こう当時を振…

何がこわいといって、子供を生むぐらいこわいことないんです 藤圭子

1971年9月発行の週刊平凡で、藤圭子が木元教子のインタビューに答えています。藤圭子は同年8月2日に前川清と長崎県佐世保市で挙式を挙げたばかりです。記事のタイトルは『赤ちゃん生むのがこわいんです』。子供のことについて話した部分を引用します。 木元 …

石坂まさを「圭子の夢は夜ひらく」作詞のエピゾード

DVD「田原総一朗の遺言 ~藤圭子/ベ平連~」で、石坂まさをが「圭子の夢は夜ひらく」を作詞した時のエピゾードを、電話で田原総一朗に話しています。2011年末と思われる収録ですので、石坂まさをの体調はあまりよくないように聞こえます。「その時、僕、熱…

藤圭子の『不幸』を演出した石坂まさをの誤算

藤圭子のデビューにあたり、石坂まさをはデビュー戦略を練りますが、その際に参考にしたのが、1967年に五木寛之が発表した小説『涙の河を振り返れ』です。このことについてはこちらの記事 に書いています。藤圭子の売り出しにあたって、ことさらに藤圭子が貧…

母の目を治すために歯を食いしばって仕事をした藤圭子

藤圭子の母・竹山澄子さんの目の病気は網膜色素変性症でした。この病気は見える視野が徐々に狭くなり、ひどく悪化した場合は視力がまったく失われる人もいます。病気の進行には個人差があり、若いうちから見えなくなる人もいれば、80代になっても視力を保っ…

単調さを避けて歌いまわしを変えた「女のブルース」の歌唱

「女のブルース」は、石坂まさを作詞の歌詞が4行詞の形式で、起・承・転・結の形になっています。作曲の猪俣公章は、起・承にあたる1フレーズ目と2フレーズ目でメロディを変えていますが、音の長さはどちらも 短・長の繰り返しで同じです。 1フレーズ目の楽…

牧太郎 僕が封印した藤圭子さんの「母」と「川端康成」

牧太郎という人は1944年生まれで毎日新聞の専門編集委員を務めています。その牧太郎氏が毎日新聞の編集委員だった1996年に「高度成長と全共闘」の時代を「藤圭子の存在」を通じて描こうとして藤圭子に長時間のインタビューを行っています。 そのインタビュー…

”当確” のはずの紅白復帰ならず ダウンした藤圭子

藤圭子は紅白出場に異常ともいえるほどの執着をもっていたエピソードがあります。 「流星ひとつ」で、1973年の紅白に選ばれなかったとき、藤圭子が、NHKは藤圭子を必要としていないのだから来年のNHKに出るのはやめようとマネージャーに迫ったと話しています…

五味康祐から ”絶望的手相” と宣告された 藤圭子

手相などというものは非科学的でおよそ信用ならないというのが私の見解ですが、今回の記事は当時の藤圭子の、今後の男女関係を暗示しているような記事ですので、取り上げてみます。 週刊平凡 1975年7月10日号から抜粋して引用します。作家の五味康祐さんの手…

村田英雄の病室を見舞った藤圭子

1973年8月23日の週刊平凡に、入院中の村田英雄を藤圭子が見舞った様子が掲載されています。村田英雄は同年4月頃から糖尿病の悪化で入院していました。 村田英雄は、4歳のときから芸名を持って浪曲師の両親の巡業先で舞台に上がり浪曲を歌っていました。13歳…

藤圭子とカラオケを楽しんだ "キャッシー" は 37年前のヨーロッパ旅行も一緒

2013年10月9日に、スポニチアネックスは次の記事を配信しました。 藤圭子さんお別れ会 兄の藤三郎氏も出席 8月に他界した歌手の藤圭子さん(享年62)のお別れ会「さよならの唄―また逢う日まで―」が8日夜、都内のホテルで行われた。 関係者ら約50人が集…

ロック歌手に転向したカルメン・マキ と 米国でロックを歌うために英語を勉強した藤圭子

似ているようで違う、違っているようで似ている。カルメン・マキと藤圭子は、私にとってそんな関係です。 カルメン・マキは藤圭子がデビューする7ヶ月前、17歳のときに「時には母のない子のように」でデビューしています。寺山修司の秀悦な歌詞と、カルメン…

復帰は人間としてないと宣言していたが  引退1年後には早くも復帰を決めていた藤圭子

藤圭子は1979年12月に一度引退して復帰したのは1981年7月ですが、その約半年前には復帰することが決まっていました。「二度と復帰することはないと思います。人間として」とまで言って引退したにしては、それをすぐにひっくり返す気の変わりようは、第三者か…

曽根幸明いわく ”トンビが鷹を産んだ” 藤圭子と宇多田ヒカルの関係

曽根幸明が著書「曽根幸明の昭和芸能放浪記」を出版したのは2007年7月です。曽根幸明はこのとき73歳。2002年に脳梗塞で半身不随となりますが、その後も作曲活動を続け、同書の出版時は日本歌謡芸術協会会長を務めています。2017年4月に83歳で亡くなっていま…

"あたし" と "わたし" で揺れ動く「新宿の女」

「新宿の女」は藤圭子のデビュー曲ですが、この歌唱でも藤圭子は石坂まさをが作曲した楽譜を無視して歌っています。曲の出だしは楽譜上、上昇音階が2回連続し、一旦下降して再び上昇音階が2回連続します。楽譜のメロディからは少しリズミカルな印象を受けま…

藤圭子がみずから選曲したベストアルバム「マイ・セレクション 藤圭子」

アルバム「マイ・セレクション 藤圭子」は1978年に発売されたベストアルバムです。「マイ・セレクション」とあるように、藤圭子が自ら選曲した曲で構成されています。他の歌手のこうしたコンセプトのアルバムと同様にこのアルバムも、A面は自分の好みよりは…

大物政治家の圧力はあったのか 藤圭子 疑惑の紅白出場

藤圭子は紅白に1970年、1971年、1972年と3回連続で出場しています。1973年と1974年は出場できず、1975年と1976年に再び出場しています。 そこで問題となるのが、1975年と1976年の紅白出場です。1975年の紅白出場は、NHKに対して大物政治家からの圧力があった…