命つないだ100円のねじりんぼう

1971年2月から4月にかけて、月間平凡に「藤圭子 告白自叙伝」として藤圭子が自叙伝を書いています。その記事は子供も読むことを考慮しているのでしょうか、すべての漢字にふりがながつけられています。今回は同年2月に「命つないだ100円のねじりんぼう」のタイトルで掲載された記事から抜粋して引用します。


…北見、網走、湧別、稚内…など北海道の各地から東北地方にかけて親子は毎日、炭鉱や飯場、養老院などを渡り歩いては、なんとか浪曲をきいてくれるひとたちをさがしまわっていました。せっかくたどりついたのに、ほかの浪曲師がひと足先にはいりこんでいたり、この日のような、おもわぬ支障でしごとにありつけなかったり、ということもよくありました。

農家の門付けをして歩いて納屋に泊めてもらったり、駅の待合室で、からだを寄せ合って夜を明かしたことも数え切れません。

その間、姉(富美恵)と兄(博)は小学校へゆくために、旭川の小さな家で、ふたりっきり、留守番をして暮らさなければなりませんでしたが、やがて私も33年4月、小学校(旭川市大有小学校)へ通うことになると、旅回りをつづける両親とはなれて、姉、兄といっしょに家にのこらなければなりませんでした。

「3人で、とにかく1日60円でやるんだよ」

両親は旅へでかけるとき、留守中の3人の子供が生きてゆくために、ひとり1日20円のお金を渡してでました。10円はおかず代、10円はおこづかいでした。

10円でどんなおいしいおかずが食べられましょう。朝はいつも早くパン屋へいって、断ちおとしのパンの耳を買って食べました。2個10円のコロッケを3人で分けて食べることも、紅ショウガだけでごはん、ということもしょっちゅうでした。

 (中略)

そのころ、両親がまわって歩く山村や農村のすみずみまでテレビが普及したせいでしょうか、旅回りの浪曲などをきいてくれる客も目にみえてへってゆきました。それでなくとも、仕事が思うようにとれなかった両親はますます苦しい立場に追い込まれていったようです。

ある日ーーーそれは私が5年生のときのある土曜日だったはずです。自宅からそう遠くない村で、両親が仕事をするようなときは、土曜日に学校が終わると、私は両親の仕事先までついていくことが多くなっていましたから。その日、母の出番になったのに、なれない場所で目が不自由な母はしたくがおそくなってしまったのです。待ちきれずにお客さんがののしりはじめました。

「早うせんか! 金返せよぉ!」

困りきった母は、とっさに私を呼びました。

「純ちゃん、おまえ、ちょっとうたって場をつないでくれんか」

母に深い考えがあったわけではありません。ただ、小さいときから、よく家で勝手に歌ったり踊ったりすることの好きな私に、とっさのおもいつきで救いを求めたのでした。

私が粗末な舞台へ押し出されるようにしてでると、お客さんは一瞬、きょとんとしたような顔をしました。

ところが、そのころ私が好きだった畠山みどりさんの『出世街道』をうたいおわったとき、拍手の中から、100円札をチリ紙に包んだねじりんぼうが、舞台に雨のように飛んできたのです。

それは両親を狂喜させるできごとでした。それからというもの、両親は、土曜日になると、私を呼んでは舞台に立たせました。そのたびに飛んでくるねじりんぼうの雨。私はバラックの楽屋で、母がチリ紙の包みをひとつひとつ大事そうに開け、しわくちゃの百円札を、のばしては座ぶとんの下に一枚一枚入れている姿を、生涯、忘れることができないでしょう。

〈母がこんなに喜んでくれるのなら、私はうたおう。うたってうたって、うたいまくってそのお金でどうしても母の目がみえるように医者にかけてやろう!〉

そのとき私は心にそう誓ったのでした。

藤圭子の特質が最も活かされた「刃傷松の廊下」の歌唱

「刃傷松の廊下」は1961年にキングレコードの真山一郎が歌い大ヒットした歌謡浪曲です。歌謡浪曲というのは浪曲と歌謡曲が合体したもので洋楽器の伴奏で歌い、合間にセリフが入ります。真山一郎は歌謡浪曲の第一人者でした。

藤圭子は「流星ひとつ」で10歳から歌い始めて5曲目に得意となった歌ですごくいい歌と話しています。

藤圭子がどう「刃傷松の廊下」を歌ったのかを知るには、同じ曲を歌っている他の歌手の歌唱と比較するのが一番です。藤圭子歌だけを聴いたのでは、どうしてもファン心理が働いてしまい、裏付けのない評価になってしまいがちです。その点、他の歌手との比較であれば、より客観的な比較が可能となります。

今回はステージ音源ですが、島津亜矢と比較してみましょう。島津亜矢のステージ音源には2つあるのですが、2014年にUpされた音源を対象とすることにします。


【刃傷松の廊下】 島津亜矢

島津亜矢の歌唱は全体的に力強く歌っています。ですがセリフの部分でがっくりとします。島津亜矢はオリジナルの真山真一郎の歌唱を聴いたことがあるのでしょうか。歌舞伎で見栄をきったときの発声に似ています。聴いているファンもそのつもりのようです。


藤圭子 刃傷松の廊下

両方を比較してみて一番違うのはセリフの部分です。藤圭子は真山一郎と同じように語っていますが、島津亜矢はセリフに切迫感が全く感じられません。刃傷沙汰が起きて皆に集まるように呼びかける必死のセリフが、島津亜矢ではまるでゆっくりで、堂々と語ることに主眼が置かれているようです。

ここはそんなに悠長なことをしていい場面ではありません。2回めのセリフでは早口で話していますが、最後の部分で歌舞伎で見栄を切るような発声をしており、お客さんは喜んでいますが切迫するこの曲に合っていません。

これに対して藤圭子のセリフはほぼ完璧の出来と言えるでしょう。それには両親が浪曲師で幼い頃から浪曲を聴いて育った藤圭子ならではのセリフのうまさが反映されているように思います。藤圭子はセリフを声色で語っています。男性の声に近い声色を使っているのです。これもこの曲の迫真性を感じさせることにつながっています。

島津亜矢では低音の地声が男性の声に近いのでそのままでいいのですが、セリフに切迫感がないので声の良さが活かせていません。

藤圭子の声には暗い響きがあり、悲劇であるこの曲に暗い声はよく合っています。藤圭子の暗い声が、曲全体を通して悲劇としての「刃傷松の廊下」を表現することに貢献しています。島津亜矢の声は明るい声であり、この曲には向いていません。

藤圭子は1音1音区切るように発声しており、こうした歌唱が全体を通して武士社会の厳しさ、事態の緊迫感をひしひしと感じさせますが、島津亜矢の歌唱にはそれがあまり感じられません。

サビの部分は1番は ♪大役ぞ 2番は ♪意気地あり 3番は ♪これまでか ですが、藤圭子はこのサビの部分をシャウトに近い大声でぶつけるように表現しています。2番ではその後の ♪刃におよぶ も大声で歌っています。特に3番の ♪これまでか は完全なシャウトになっています。これに対して島津亜矢ではサビの部分で大きな声で歌っていますが、シャウトに近いとまでは言えません。

藤圭子は、赤穂の御家断絶となる浅野内匠頭の無念さを圧倒的なシャウトで強烈に表現しています。

藤圭子の歌うパワーが尋常でない強さであることが分かる歌唱です。ただ単に大声を出しているだけでなく、緊迫した場面にふさわしい発声を行っています。この歌でのパワーを発揮したシャウトやシャウトに近い歌唱が、聴く人にただならぬ事態の重大性を伝え、強い印象を与えています。

藤圭子の歌唱で、武士の厳しさが感じられる要因には、ここぞというところで大きなビブラートをかけていることも寄与しています。具体的には2番の ♪武士には武士の という〈の〉の部分の大きなビブラートが事態の緊迫感と浅野内匠頭の凛とした覚悟を効果的に表現しています。

これ以外にも各所で語尾に大きなビブラートかけることによって、武士社会の厳しさを表現することに役立っており、曲全体に緊張感を生み出しています。島津亜矢もビブラートはありますが余り目立つものではありません。また藤圭子は、この曲で巻き舌を多く使って表現力を高めていますが、島津亜矢に巻き舌はありません。

曲全体を通して島津亜矢の歌唱には武士社会の厳しさが感じられませんが、藤圭子の歌唱にはそれが如実に感じられます。この違いはこれまでに挙げた両者の歌唱の違いに由来するものです。

両者を聴いてみて、藤圭子の歌唱には気品と高潔さがあり、歌謡浪曲を歌うという強い意気込みが感じられますが、島津亜矢の歌唱にはそれが感じられず、単にセリフの入った歌謡曲を歌っているといった感じです。

「刃傷松の廊下」では藤圭子の暗い響きのある声が、悲劇的な曲とよくマッチし、パワーのある声量も活かすことができています。「刃傷松の廊下」は藤圭子の暗い声とパワーのある声の特徴が最も活かされた曲のひとつだということができます。

藤圭子は学生層をはじめとしてなぜ民衆に支持されたのか

藤圭子は学生層をはじめとして労働者層や主婦層など幅広い世代から支持を受けました。藤圭子はなぜ支持されるようになったのでしょうか。可憐な外観と声のギャップやアイドル人気などといった説明がありますが、ここでは違う観点から見ることにします。

当時の学生は、日大の20億円の使途不明金問題をきっかけとした日大闘争をはじめとして、1968年のピーク時には全国大学の8割に当たる165校が紛争状態に入り,その半数の70校でバリケード封鎖が行われました。

学生闘争は、学生が会社員として唯々諾々として企業に就職する現状に対して、企業に役立つための教育に反対し、純粋な大学教育のあり方へと、問題を根本的に問うものに変化していきました。その闘争は大学教育への異議申し立ての性格を帯びるようになります。

一方で、高度経済成長に浮かれていた状況で、藤圭子の出現は異質な存在として認識されました。経済成長真っ只中で豊かになった民衆は、藤圭子にかつての豊かとは言えない時代を見たのです。貧しさの中から出現した藤圭子は高度経済成長を謳歌していた社会状況に対するアンチテーゼとなり、現状を否定するものと受け止められるようになりました。

ここで学生闘争の学生と藤圭子の出現は現状に対する異議申し立てという点において、一致を見ることになったのです。学生層が藤圭子を支持した背景には、こうした学生層による藤圭子への『シンパシー』があったからだと言えるでしょう。

藤圭子がデビューした当時は、地方の貧しい生活で進学できなかった中卒や高卒の人たちが集団就職で大量に都市部へ移動し、就職した時代でした。故郷を離れて都市部の企業で悪条件の中でつらい労働に明け暮れていたこうした労働者層は、貧しい出自の藤圭子に自らの出自を投影し、『共感』したのでしょう。

高度経済成長を謳歌していた1960年代後半は、人々の暮らしが急速に豊かになった時代です。GNPが世界第2位になったのは1968年です。そうした中でかつての豊かとは言えなかった日本を象徴するかのような藤圭子の出現は、当時の明るい希望に満ちた時代の中では忘れられていた存在が蘇ってきたようなものでした。不幸を一身に背負ったような藤圭子に『同情』した主婦層などが、かつての苦しかった時代の経験から藤圭子を支持したと言えるでしょう。

藤圭子の出現は、その時代状況と偶然一致し、その存在が最大限の輝きを放つ絶妙のタイミングだったといえるでしょう。

喉の手術で藤圭子の声はどのように変わったか

藤圭子は1974年5月に喉を手術しています。藤圭子は肥厚性声帯炎という歌手の職業病とでもいう疾患を患っていました。歌い続けると喉が炎症を起こし、声がかすれて歌えなくなってしまうのです。その原因とされた喉のポリープを切除する手術を受けたのですが、そのことで声質が変わってしまったといいます。

藤圭子は、自分の強みと考えていた声が失われてしまったことで悩むようになります。「流星ひとつ」から引用します。

「… あたしの歌っていうのは、喉に声が一度引っ掛かって、それからようやく出ていくとこに、ひとつのよさがあったと思うんだ。高音でも同じように引っ掛かりながら出ていってた。ところが、どこにも引っ掛からないで、スッと出ていっちゃう。前のあたしに比べると、キーンとした高音になってしまったんだよ」

「… 日劇でショーをやって、すぐまた営業をやったら、昔のようなかすれ声になったんだ。でもね、それはただ単に荒れたというだけのことだった。すぐ元に戻っちゃった。かすれ声になったといっても、高音の引っ張りなんかが、ぜんぜん違うんだよね …」

手術の前は喉に声が一度引っ掛かって、それから出ていったのが、手術の後ではそれがなくなったと言っています。また昔はかすれ声だったとも言っています。

では、実際に手術前と手術後とで声がどうなっているか比較してみましょう。それにはライブで同じ曲の音声を比較するのが一番確実です。ここでは1971年のライブと1977年のライブで歌った「新宿の女」を比較してみます。6年の隔たりがありますが、本来はあまり声に違いがでないはずです。


藤圭子 新宿の女 1971年


藤圭子 新宿の女 1977年

どうでしょうか。聞いてみて1971年ではかすれ気味の声のように聞こえますが、1977年ではきれいな声になって聞こえます。サビの部分で1971年は、藤圭子が ”喉に声が一度引っ掛かって” というように、かなり雑音が混じって聞こえます。1977年ではそれが全くなくなってきれいな声のままです。

曲によって違いが分かりにくいものもありますが、この「新宿の女」は違いがはっきりと分かります。少々オーバーにいえば別人が歌っているようにも聞こえます。

藤圭子の特徴的な声が、手術によって失われてしまったと藤圭子が言っているのは、この「新宿の女」で感じられる声質の違いを言っているようです。

一般にはこの声が変わってしまったことが、引退の大きな原因になったとされているようですが、それは一因ではありますがもっと重要な理由があると思います。

藤圭子が「流星ひとつ」で言っていますが、かつての「余韻」で歌っていくことが嫌になったことが、引退の主な理由のようです。

石坂まさをと藤圭子の奇妙な師弟関係

藤圭子は1968年の秋頃に石坂まさをと知り合い、住み込みでレッスンを受けるようになります。「流星ひとつ」で藤圭子は初めて石坂まさをと出会ったときの印象を、自分に似ていると話しています。石坂まさをの、世の中の辛酸をなめ尽くしたその雰囲気が自分と似ていると感じたのかもしれません。

石坂まさをと藤圭子は師弟関係を結んだことになりますが、1960年代後半の頃の師弟関係は今よりも厳しかったと思います。師匠によって違うと思いますが、日常の所作や歌のレッスンでまずいところがあると、鉄拳が飛んでくるといったことも珍しくなかったでしょう。それでも指導を受ける歌手はじっと耐え忍ぶことが当時では当たり前だったと思います。

ところが石坂まさをと藤圭子の師弟関係はまるで違っていました。藤圭子は耐え忍ぶどころがしばしば反抗したのです。ふたりの年齢差が10歳と近かったためということがあるかもしれませんが、それにしても普通の師弟関係からは程遠い関係にありました。

藤圭子がデビュー前のことです。「悲しき歌姫」から引用します。

龍二は、純子を連れて新宿の街を歩いていた。まだ、春には間があった。風がホコリを逆立てている。
「純ちゃん、手相観てもらおうか」
「あっ、おもしろい、おもしろい」
手相見は、純子の手相を見るなり、断言した。
「この子は、太陽線が伸びていませんね」
太陽線は、別名出世線ともいう。龍二は、なぜか急に腹立だしくなった。
「純ちゃん、駄目じゃないか。手相なんか、変えてしまえ! 血液型も変えろ!」
純子は、口をとがらせた。
「そんなあ……。無理ですよう」
龍二は、力の限り、純子の左頬をぶった。理不尽極まりないことはわかっていた。しかし、龍二に何かが憑いていた。そんな馬鹿なこと、と誰でも呆れるだろう、
 (中略)
案の定、純子は、キッと龍二の目を睨んだ。白目の部分が、凄惨な殺気を孕んでいた。
「なんだ、その眼は」
「フンッ……」
そういったきり、プイッと走り去ってしまった。

到底無理な要求ですが、藤圭子は師匠である石坂まさをに反抗しています。理由はどうあれ、師匠に弟子が反抗するなど、あり得ない時代の話です。

石坂まさをは、藤圭子がRCAからデビューすることになる直前にも理不尽な理由で藤圭子を殴っています。藤圭子と石坂まさを、RCAの榎本襄氏が3人で藤圭子の誕生会を行おうとした時、藤圭子と榎本襄氏の誕生日の月日が同じことが分かります。この時、藤圭子をコロムビア デノンからデビューさせることが半ば決まっていました。その時のことを「宇多田ヒカル母娘物語」から引用します。

そして、その宴の終わり頃、僕は純ちゃんに、さり気なく聞いてみた。
「純ちゃん、デノンとRCAとどちらからデビューしたいの」
と、すかさず純ちゃんは、
「デノンよ」
と答えた。
その時僕の右手が純ちゃんの左頬を張り倒していたのだ。これには僕のほうが驚いてしまった。自分の最低さに愛想が尽きたが、片方では真実の声だと思った。


石坂まさをが真実の声だと思ったのは、RCAの榎本襄氏が熱心に言ってくるので、RCAでデビューさせたいと考えたからでしょう。

石坂まさをに連れられてレコード会社のディレクターやテレビ会社のプロデューサーに売り込みに行ったときには、打って変わって藤圭子は石坂まさをに絶対服従でした。当時の石坂まさをの売り込みを見ていた榎本襄は、石坂まさをに連れ回される藤圭子は ”猿回しの猿” のように映ったといいます。

藤圭子のデビュー後に石坂まさをが話しています。

彼女をぼくの手もとに引きとってからデビューするまで、ずいぶんとシゴいたもんだ。
ぼくはいささか女をバカにする傾向があるんで、曲のことで意見がぶつかったりすると、ついぶんなぐっちゃうんだな。彼女はワンワン泣きながら出て行っちゃう。でも、朝になってみるとちゃんと帰って寝ているんだな。オレも変わっているけど、彼女もそうとうなもんだよ。

師匠と弟子との間で曲のことで意見がぶつかることなど、普通の師弟関係ではあり得ないことでしょう。それが石坂まさをと藤圭子ではたびたびあったといいます。

藤圭子はその著書「藤圭子物語」で次のように書いています。

沢の井先生は気狂いになったみたいに私をシゴいていきました。
しょっちゅう意見の衝突があり、ケンカもしました。二人とも怒りっぽいので、すぐに売り言葉に買い言葉とでもいうのでしょう。「表へ出ろ」「出るわよ」というわけで、あわや取っ組み合いのケンカになることもしばしば。

これでは普通の師弟関係とは言えません。どうしてこういったことになるかといえば、初代林家三平師匠夫人の海老名香葉子さんが言うように、藤圭子は石坂まさをと対等な関係になりたいと考えていたからでしょう。

それだけ普通の師弟関係を超えて、互いに喧嘩できるほどの仲となり、藤圭子は石坂まさをと親密な関係にあったといえます。これが後年になって、藤圭子が「この世で一番憎んでいるのは母親と石坂まさを」というようになる伏線になったと思います。なぜなら、阿部純子育ての親は竹山澄子さんですが、藤圭子育ての親は石坂まさをだからです。