流し時代の藤圭子に声をかけて知り合い、衣装担当となり相談相手ともなった女性

デビュー前後の一時期、藤圭子の相談相手になっていた女性がいます。藤圭子がデビューしてから彼女は衣装作りの担当となり、デビュー1年目近くになると作った衣装は20着にもなったといいます。

1970年7月発行の週刊平凡から抜粋して引用します。


11月の寒い夜だった。錦糸町駅前の飲み屋街を、一人の少女が歩いていた。白いブラウスに、薄汚れたピンクのスカート。もう冬だというのに、彼女は夏の服装のままだった。茶色い安物のギターをかかえてーー無名時代の藤圭子である。

「ちょっとあんた!」

不意に彼女の前へまわり込んできた顔があった。断髪で、ジーパンにセータースタイルの少女ーーそれが坂井寿子さんだった。

「冬だというのに夏服着てるしさ、あまりみすぼらしいかっこうしてたんで、かわいそうになっちゃって…それで声かけちゃったの」

坂井さんは当時を思い出してこういう。

「うちへいらっしゃいよ」

坂井さんがいうと、藤圭子は黙ってついてきた。錦糸町駅から都電に乗って5つめ、坂井さんの家は『宝屋』という女性の下着専門の店だ。

「あのころの彼女って、すごくずうずうしかったのよ。家へ連れてきたんだけど、私がちょっと目離したすきに、もう茶碗なんかひっぱりだしてゴハン食べてるの、もうあきれちゃって…」

坂井さんはこういうが、藤圭子のそういうえんりょのないところが、逆に好きになった。

「私も変わっているけど、純ペイもちょっと変わってる、そこがうまく合ったのかもしれないね」

その夜、藤圭子は、とうとう泊まり込んでしまった。

これが2人の出会いである。この日から2人は、お互いを ”純ペイ” ”トコちゃん” と呼び合う仲になった。


当時、藤圭子は流しで家計を支えていおり、1曲100円でひと晩に100曲近く歌うこともあったといいますが、彼女のこづかいは1日500円しかありませんでした。その500円で好きなグループ・サウンズを見に昼間「銀座ACB」へ通いました。グループ・サウンズを見てちょっとお茶を飲んだらもうお金がなくなってしまうので、当時安かったトマトをよく食べたといいます。

 

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「わたしもおこづかいほしくって、純ペイと一緒に流しをやったのよ。3ヶ月くらい。私のほうがお客にうけて、純ペイ、よくひがんでたっけ…」

トコちゃんの声は藤圭子にそっくりで、電話でまちがえられることが多いという。

トコちゃんは、洋裁の勉強をしながら、お店のお手伝いをするのが日課。洋裁はプロ級の腕だという。

藤圭子が着ているもののほとんどは、トコちゃんが作ったものだ。もう20着くらいになるという。

「純ペイはなんだっていいのよ、着れれば、彼女センスないからね。わたしが布地から全部選んでつくってやるの」

トコちゃんは、これがいいかなと思う布地を選ぶと、スカートやパンタロンを勝手につくる。寸法は分かっているから、藤圭子の好みなどおかまいなしに、好きなように作って持っていくのだ。藤圭子は、それを黙って着ている。下着もトコちゃんのお店で売っているものを使う。


坂井さんの作った衣装は藤圭子にふさわしいものだったでしょうか。デビュー当時の動画などを見るとあまり似合っていないように感じられます。なんというかもっとセンスのいい衣装があるんではないかと思えてきます。


…あっという間にスターになってしまった。トコちゃんも、また、藤圭子自身も想像しなかったことだ。

が、2人の仲は、それによってこわれることはなかった。

「純ペイは、わたしの前では、藤圭子じゃないのよ。彼女もそんな人気歌手みたいなとこちっともないし、昔と変わらない」

こういうトコちゃん。また藤圭子もーー

「人気歌手になると、みんな友だちがなくなるっていうけど、わたしは、そんなこと絶対ない。トコちゃんは、わたしの苦しいときからの心のたよりだもの…」


当時の藤圭子は坂井さんをとても頼りにしています。地方出張中であっても藤圭子は毎日坂井さんに電話をかけてきたといいます。まわりにプライベートなことで相談できる人がいなかった藤圭子は、坂井さんに電話することで相談事などを話し、精神的な安定を得ていたものと思われます。

 

ニューヨークで沢木耕太郎を待っていた藤圭子

アサヒ芸能 2013年10月31日号から抜粋して引用します。話している内容の時期は1980年の秋頃と思われます。


「私が『なぜ、ニューヨークに来たの?』と彼女に尋ねると、『実は、沢木耕太郎を待っています』と、答えたんです」

本誌の直撃取材に、こう当時を振り返るのは、ライターのマコこと田家正子さん。正子さんがいう「彼女」とは、去る8月22日に西新宿の自宅マンション13階から飛び降り自殺した藤圭子(享年62)のことだ。

 (中略)

正子さんが初めて藤に会ったのは、ニューヨークのカフェでお茶を飲んでいるときだった。

「日本人らしい女性が前を通り過ぎたと思ったら、すぐに戻ってきて「日本人ですか?」と聞かれました。その時は気づかなかったのですが、それが藤圭子でした。彼女に「アパートを探している」と相談され、一緒に探し、レキシントン・アベニューで、新築のアパートを見つけました。

その後、ある事情から、2人で探したそのアパートの同じ部屋で3ヶ月後に帰国するまでの間、藤と同居することになったという。

 (中略)

藤はニューヨークの生活の中で、大切に保管しているものがあった。

「沢木さんが彼女について書いた、300枚くらいのインタビュー原稿を大事に持っていたのを覚えています。沢木さんは当時連載していた新聞の連載が終わったら『コロンビア大学のジャーナリズム科に通う予定だった』そうで、このアパートで一緒に暮らすために待ち続けていたようです」(正子さん)

しかし、その思いはむなしく、沢木氏が ”愛の巣” を訪れることはなかった。


2000年になって藤圭子は、沢木耕太郎から裏切られた時の状況を ”人生のどん底” と述べています。歌手を引退してニューヨークに移り、二人で暮らす夢の実現に希望を膨らませていた藤圭子にとって、沢木耕太郎の裏切りはよほど強いダメージだったものと思われます。このことで藤圭子は精神的に不安定になります。藤圭子の精神の病の発症はこの時点かもしれません。

川田正子は友人を呼んで騒ぎますが、その中に宇多田照實氏がいました。照實氏は初めて会った藤圭子の印象を、感情が不安定で類まれな気まぐれな人と形容しています。

もし藤圭子が存命であれば、沢木を信じて何でも話したインタビュー本を、その信頼を裏切った沢木耕太郎が発表することなど絶対に許さなかったことでしょう。

何がこわいといって、子供を生むぐらいこわいことないんです 藤圭子

1971年9月発行の週刊平凡で、藤圭子が木元教子のインタビューに答えています。藤圭子は同年8月2日に前川清と長崎県佐世保市で挙式を挙げたばかりです。記事のタイトルは『赤ちゃん生むのがこわいんです』。子供のことについて話した部分を引用します。

木元 ところで、お子さまは…?

藤  そのことですけれどねぇ、(笑)できればの話ですけど…。

木元 でも、できるんじゃない、そのうちに…。

藤  そうでしょうか。(笑)自分では子供ができないんじゃないかと思っているんですけどね。

木元 どうして?

藤  どうしてって、私はふつうの人みたいに体格よくないしね。それに子供なんかできるとこわいですね。おなかがおおきくなるんでしょう?(笑)いろんな人に痛くないかって聞くんですけど。ほんとにふしぎですね、あれは。(笑)


妊娠には喜びとともに不安もつきものですが、不安の中でも出産時の痛みに関してが多いといいます。藤圭子が陣痛を怖がっていますが、まだ妊娠していないうちからかなりの怖がりようです。

 

井上和博氏はフリーの写真家で、2002年に『時代を喰った顔』という写真集を出しています。その中に藤圭子と竹村健一の対談の場面があります。時期は1978年2月。記事のタイトルは『26歳バツイチ藤圭子、出産を語る』です。抜粋して引用します。


寂しく沈鬱そうな外見とは裏腹に、明るくはきはきした受け答えだった。彼女自身「あわてんぼで、ちょっとでも暇があれば、じっとしていられない」と自分の性格を語っている。プライベートでは、ロックを聴いたり騒いだりするのが好きなのだそうだ。

「もう一度、結婚しようという気はありますか?」という竹村の質問に、「さあ…いまのところ、する気ありません」と答えた。竹村はさらに「では、いま理想の男性があらわれて、結婚してくれいうたら、どうする?」とつっこんだ。それに対して藤は、

「あたし、子供生むのがこわいから…。何がこわいといって、子供を生むぐらいこわいことないんです」

と言い切った。

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またここでも出産を怖がっています。何よりも子供を生むことが怖いと言っています。ここまで極端に出産を怖がる人はそうはいないでしょう。当時の藤圭子には子供を生んで母になる、というイメージはありませんでしたが、実際においても子供を生むことに対する恐怖心に圧倒されている様子が見て取れます。母になるというよりは、その逆に守ってあげたいと思わせるイメージです。

この5年後に、米国で照實氏との間に宇多田ヒカルが生まれます。出産予定日はクリスマスでしたが、予定日になっても陣痛が起こらず、いつまでたっても陣痛が起きないので陣痛促進剤を何度も打たれますが、それでも陣痛が起きませんでした。結局、出産予定日から4週間近く経った1月19日に帝王切開でヒカルを産みました。

出産予定日を過ぎて日が経つと、胎児が羊水の中で排便するようになり、それが胎児の呼吸器に入り、出産したときに呼吸障害で死亡するリスクが高くなります。ヒカルも取り上げられたときは呼吸をしておらず、照實氏が必死に介抱してようやく産声をあげたといいます。帝王切開は時期的に死産になるかどうかのギリギリのときに行われたことがわかります。

藤圭子が陣痛促進剤を打っても陣痛が起きなかったのは、出産に強い恐怖心を持っていたことが大きな要因として考えられます。それには藤圭子が典型的な機能不全家庭で育った幼少時の体験が影響しているようです。

40代で練習して上が1オクターブ、下が半オクターブ広がった藤圭子 『岸壁の母』を歌う

1997年5月発行の週刊読売で藤圭子が話しています。抜粋して引用します。

性格なんて変わる

本人を前にして

「どんな性格です?」

聞いてみた。

「そうねぇ・・・」

ちょっと困ったような顔をした。

「正直、自分の性格が分からない。変わってきているとは思うんです。性格は環境などで変化してくると思うんですよ」

気が強い?

「そうじゃない」

首をぷるんと振った。

「私、すごく気が弱いと思う。そこが自分の欠点かなァ。周りの環境、人の目を気にするんですよ。デビューした当時なんか、周りの目が気になって外に行けなかった。逃げ隠れてコソコソしていましたからね。いまでもそういうところがある。だけど、結婚し、子供ができてからは随分、変わったと思いますよ」

娘との差は数十倍に開く

81年、カムバック宣言をしたが、事務所との折り合いが悪く、復帰にはならなかった。再び渡米。生活の場を米国に移して本場のヒップホップ音楽などを学んだ。

その間、ニューヨークで知り合った米国生活の長い音楽プロデューサー・宇多田照實さんと結婚し、長女を出産。

「私の生活の場は日本ですが、彼女(娘)はアメリカでしょうね」

娘は音楽家を目指す。ボーカルになるか、作詞、作曲をやるかは分からないが

「才能は私よりある」

娘の話になると顔が和らいだ。

「もう娘にはかないません。私より数十倍、進化した人間です。OA機器でいえば二十五年前といまのコンピュータぐらいの差があります」

いまは幸せ。それを与えてくれるのが音楽だと思うようになった。

「音楽をつくる側のスタッフとして、ずっと音楽づくりに参加したい。歌うことはもちろん、曲を作るプロデューサーとしてもやっていきたいですね。

練習して上が1オクターブ、下が半オクターブ広がった

「年をとるとキーが下がるといわれているけど、毎日2時間、声を出して練習しているので、声は上が1オクターブ、下が半オクターブ増えましたよ」

 


藤圭子 乾杯トークソング 岸壁の母

藤圭子は1997年11月2日の乾杯トークソングで『岸壁の母』を歌っています。その際のキーがそれまでの彼女のキーよりもかなり高くなっています。これはあきらかに日頃の練習の賜物でしょう。

石坂まさを「圭子の夢は夜ひらく」作詞のエピゾード

DVD「田原総一朗の遺言 ~藤圭子/ベ平連~」で、石坂まさをが「圭子の夢は夜ひらく」を作詞した時のエピゾードを、電話で田原総一朗に話しています。2011年末と思われる収録ですので、石坂まさをの体調はあまりよくないように聞こえます。

「その時、僕、熱を出しちゃって38度くらいの。それでスタジオ行って毛布にくるまっていたんですよ。そしたらディレクターの榎本襄さんが、『これわるいけど 圭子の夢は夜ひらく というタイトルにしてあるから、オリジナルを書け』ちゅうんですよ。

それで朦朧として、何をオリジナルに書いたらいいんだろうと思って、赤く咲くのはけしの花、白く咲くのは百合の花、どう咲きゃいいのさこのわたし、夢は夜ひらくって、藤圭子さんは紅白に出たいと思ってやったんだからと、そういうふうに詞を書いたんですよ。

2番になったら朦朧としてますから、今度、自分は中学校までしか出ていなかったから、十五、十六、十七と、私の人生暗かった、過去はどんなに暗くとも、夢は夜ひらくって、朦朧と書いたんですよ。

そしたら少し頭がしっかりしてきて、こんなことじゃいけないと思って、藤圭子さんのことを書かないといけないと思って、その当時、藤圭子さんドラムに夢中になっていて、ホリプロのオリーブっちゅうチームにマー坊とトミーっちゅう子がね、ドラムを叩いてたんです。それの追っかけをやってたんですよ。憧れ的な男の子が二人いたんです。

変な話ですが前川清くんと結婚するでしょ。前川君もドラムを叩いていたから結婚したんですよ。明日はジョージかケン坊、はね、榎本襄さんちゅうのと、ケン坊というジョウケンジさんという僕のアシスタントがいたんですよ。そういうふうに名前をいって書いたんですよ。

だからてんでバラバラなんですよ。あの歌詞はね。だからよく僕、代表作って言われますけど、もう、僕としては頭がおかしい時に書いたもんですから……」

1番の〈赤く咲くのはけしの花、白く咲くのは百合の花〉というフレーズが、藤圭子の紅白出場への願掛けだったことが分かります。

2番の〈十五、十六、十七と、私の人生暗かった〉のフレーズは、藤圭子の人生ではなく、中学2年のときに、自分の母親が本当の母親ではなかったことを知って勉学への意欲を失い、かろうじて入学した高校の定時制を退学したことや、結核にかかっていたことが分かり、人生への希望を失っていた時期だった ”石坂まさをの人生” を表現したものでした。

3番の〈昨日マー坊、今日トミー〉のフレーズは、藤圭子が「流星ひとつ」で話していたことと基本的には同じです。

『圭子の夢は夜ひらく』を、高熱を出して朦朧とした状態で作詞したというのは意外です。