藤圭子 『みだれ髪』の秘密

藤圭子は1995年の「乾杯トークそんぐ」で『みだれ髪』を歌っています。このときの歌唱が素晴らしいと評判になり、You Tubeでの再生回数にもそれが反映されているようです。

今回は藤圭子が歌った『みだれ髪』がなぜそれほど聴く人を惹きつけるのか、その理由を解明してみましょう。そのために比較対象としてオリジナルを歌っている美空ひばりの歌唱も取り上げることにします。

「みだれ髪」の歌詞全体を通して、塩屋岬に女性がひとり佇み、男性に捨てられてもなお未練が残り、捨てた男性の幸せを祈らずにはいられない哀しい女性の心情が表現されています。叶わぬ恋の辛さが描かれており、女性のうら寂しさゆえの、寂寥漠々たる光景が浮かんできます。

美空ひばりの歌唱動画にはいくつかあるのですが、1988年12月放送の動画とすることにしましょう。


みだれ髪 美空ひばり

美空ひばりは楽譜にほぼ忠実に歌っています。それでいてこれだけ説得力のある歌唱ができているのは見事です。声の強弱が安定していてスムーズに出せており、聴いていてとても安定感があります。

次に藤圭子を聴いてみましょう。


藤圭子♥追悼:みだれ髪

藤圭子の歌唱も美空ひばりと遜色ないほど発声が安定しています。藤圭子の歌唱にはそうした安定したベースの上に聴く人を惹きつけるテクニックが散りばめられています。

最初の出だしの ♪かみーのー で聴く人は一瞬でいきなり藤圭子の歌唱に惹き込まれてしまいます。最初の出だしで藤圭子は ♪かみーのー の〈か〉の発声で吐息を混ぜているのです。出だしの1音に吐息を混ぜる。これほどインパクトのある出だしはないでしょう。

3小節目から4小節目にかけて、楽譜上は ♪あかいけだしがかぜーにーまうー ですが、藤圭子はこれを ♪あかい けだしが かぜーにーまうー と区切って語りかけるように歌っています。これによって聴く人は一層藤圭子の歌唱に惹き込まれることになります。

♪にーくや こいしーやー の部分。♪にーくや の〈や〉で再び吐息を混ぜています。出だしと同じように聴く人を惹きつけるテクニックです。

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楽譜上で ♪しーおーやーの みーさーきー となっている部分を藤圭子は ♪しーおーやの みーさーきー と歌いまわしの長さを変えて歌っています。〈やーの〉と伸ばす箇所を〈やの〉と短く発声することで、このサビの部分を強調する効果が生まれます。そして ♪みーさーきー の〈みー〉でしゃくりを使っています。歌唱に変化をつけるテクニックです。

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楽譜上で ♪なげーてーとーどーかーぬー と同じ間隔の歌いまわしを ♪なげーてーとどーかぬー と間を詰めた歌いまわしで歌い、単調になりがちなこの部分の歌唱に変化を付けています。

楽譜上で ♪むねにかーらーんーでー とつなげて発声するところを ♪むねに かーらーんーでー と区切って語りかけるように歌っています。

最後の ♪なーみだをしぼーるー の発声で ♪なーみだをー しぼーるー と極限まで長く引っ張っています。これほど引っ張ると聴く人に強い印象を与えることになります。

藤圭子の歌唱は随所で楽譜通りではなく、1番のみを取り上げてもこれだけの相違点があります。藤圭子は聴く人に与えるインパクトが最大になるような歌いまわしに変えたり、吐息を混ぜたりして歌っています。

安定した発声に加えてこのようなテクニックを使って歌っているので、聴く人は藤圭子の歌唱に否応なく惹きつけられることになります。さらに藤圭子の声質が『みだれ髪』に合っているといえます。

この曲で主人公が抱いている寂寥感を表現する上で、藤圭子の暗い響きと力感のある声質がよくマッチしています。一人佇む女性の希望のない荒涼とした心象風景と、藤圭子の暗い響きのある声質がぴたりと一致し、聴く人を歌の世界へ没入させることになります。また力感、エネルギー感のある藤圭子のハスキーな声質が、聴く人への訴求力を高めることに大きく貢献しています。

さらに藤圭子の歌唱において、歌詞の1音1音の発声としてのつながりがスムーズであるという点も魅力的に聞こえる理由となっています。他の歌手の歌唱が魅力的に聞こえないのは、これがスムーズでないためである場合が多いのです。

美空ひばりはほぼ楽譜通りに歌いテクニックを使わずに聴く人に感動を与える歌唱を行っています。藤圭子は楽譜通りではなくいくつものテクニックを使って聴く人が魅力的に感じる歌唱を行っています。

曲に対するアプローチの仕方が二人でまったく違うため、優劣をつけるのは意味がないでしょう。

藤圭子がマスコミ各社を動員した2000年の離婚騒動

スポニチの初代圭子番記者である小西良太郎氏は、その著書『女達の流行歌(はやりうた)』で藤圭子を取り上げています。抜粋して引用します。

「宇多田ヒカルショック、母藤圭子離婚決断!」

スポーツニッポン新聞がそんな大見出しを打ったのは、この年(2000年)の初夏、6月22日付け1面だった。各マスコミが騒然となる。娘宇多田ヒカルは ”時代の子” だ。98年12月発売のデビュー盤『Automatic』と99年3月の初アルバム『First Love』が、日本のCD売上げ記録を更新中で、2ヶ月にわたる初の全国ツアーを目前にした時期だった。

絵に書いたみたいなスキャンダルである。母は70年代の青春を象徴した演歌歌手、父は一匹狼の豪腕音楽プロデューサー。娘はニューヨーク生まれの天才少女で、一家は一夜明ければ長者番付の主になった。その人間関係が、お定まりの不倫疑惑と金銭がまつわる相互不信で、崩壊寸前…。

〈どうしてこの人はいつも、こういう不幸なドラマの主人公になってしまうのだろう?〉

僕はテーブルの向こう側で、一心に話す藤の口元を見つめながら、そう思った。半年ほど前、世田谷・経堂の僕の家でのことだ。

「監禁されている!」

という噂はオーバーにしても、ヒカル・ブーム以後、藤の行動はかなり制限されていた。極端に情報を抑えている一家は、常時、一発狙いのカメラマンに囲まれているーーと、宇多田プロデューサーは考えていた。藤は時折、そんな夫の目さえ忍んで、僕の家へやってきた。

彼女は「相談」だと言うが、僕は「愚痴」と受け取って、聞き役に徹した。デビュー前からの友達付き合いである。藤は恵まれない家庭で育った。自分の結婚に求めたのは、平凡だが温かい家族関係だったろう。確かにそういう団らんに満ちた日々はあるにはあったが、そう長くは続かなかった。娘が ”時代のアイドル” になり、その奔流の中ですべてが、狂ったーー。

藤圭子は2000年に4回目となる離婚騒動を起こしています。この騒動では結局離婚はしませんでしたが、藤圭子がマスコミ各社を動員して照實氏の不倫相手に詰め寄る直前まで行きました。今回は2000年9月発行の文藝春秋にTVレポーターの梨元勝氏が書いた記事の抜粋を長文ですが掲載します。

1月の末だと思います。僕が今出ているテレビ朝日の『スーパーモーニング』のスタッフルームに、藤圭子さんから電話がかかってきたんです。

彼女はいきなり、彼女が「宇多田さん」と呼ぶご主人・照實さんのこと。宇多田さんが、家族で経営する事務所「U3 MUSIC」の事務所の女の子と浮気している、という。その女の子は去年の6月に知人の紹介で入ってきた。最初は家族3人でやっていた事務所ですが、忙しくなって経理のできる女の子を入れたんですね。非常にテキパキ働く子だっだらしい。

彼女が言うには、そういう女性がいるんだけれど、私がいくら宇多田さんに言っても、邪推だ、思い込みだと言って取り合ってくれない。だから何とか裏付けを取りたい。取材してくれないか? と言うんです。「お金がかかるのか」と聞くので、「それは違う。僕たちは探偵事務所じゃないので、テレビで放送できるということなら取材します。あくまでも取材ですよ」と言ったんです。

女性の名前を仮にM子さんとしますと、彼女は「M子さんが住むマンションに宇多田さんが来るんじゃないか」と言うわけです。僕が行くと目立つので、内輪の人間に頼んでその部屋に見に行ってもらった。結果的には部屋には誰も住んでいないんじゃないか、という返事でした。電気のメーターが回っていないんですね。それが1月の終わりから2月の初め頃の話です。

その後、2月7日以降のことですが、突然彼女から電話がかかってきたんです。「私はもう絶対信じられない。宇多田さんは彼女と親密なんだ、私はその現場を見た」という内容でした。その時は言わなかったけれど、彼女は自らM子さんの部屋の前で張り込んでいたんですね。

2月7日、彼女はM子さんのマンション前でずっと張り込んでいた。そうしたらM子さんを送って宇多田さんが一緒に車で来た。もちろん、宇多田さんは自宅に帰ったんですが、彼女はM子さんの部屋に行ってM子さんを問い詰めるんです。「一体どういうことなんだ」と。ましてや、M子さんは自分の会社の社員ですからね。そして家に帰って宇多田さんと大喧嘩になる。彼女が家を飛び出した、というわけです。彼女がはっきりそう言ったわけではありませんが、その後かかってくる電話の端々から、僕はそういう事情を知ったんです。

ヒカルは彼女と一緒にホテルに移ったんです。というのは電話で喋っている合間に、彼女が「いってらっしゃい」なんて言うんですね。「今、ヒカルが椎名林檎のコンサートに出掛けたのよ」と。

しばらくすると突然、彼女がトーンダウンするんです。「あの時はもう自暴自棄になっていた、もうどうなってもいいと思ったけれど、ハッと我にかえったんです。私がいなければ、ヒカルの面倒は誰がみるの、ヒカルは駄目になってしまう。夫もどうなってしまうかわからない。それで私は何とか気持ちを取り直したんです」と言うわけです。

彼女の電話はいつも、前後の説明抜きで一方的に始まるので、こちらはリアルタイムではよく事情が飲み込めないのですよ。

じゃあこれで納まるのかな、と思っていたら、またすごい騒ぎになるんです。2月の後半から3月初めのことです。確定申告の時期がやってきた。「もう信じられない。宇多田さんが女性問題に続いて、また理解できない行動を取り始めた」と始まった。要するに、U3の経理問題なのですが、プロデューサー印税は宇多田さんに振り込まれ、作詞作曲の印税はヒカルに振り込まれるはずだ。ところが、これが去年の2月から支払われていない。「私は東芝EMIに行って全部調べた。一番わからないのが、歌唱印税だ」と彼女は言う。歌唱印税は新人歌手の場合、ヒットするかどうかわからないから、けっこうアバウトに決められるらしいんですね。これは事務所宛に振り込まれるのですが、これもどうなっているかわからない。「絶対おかしいわ」となるんです。それが数日間続く。

ところが確定申告の直前にまた電話がかかってきたんです。「梨元さん、ごめんなさい。あれは私の間違いだった。宇多田さんはヒカルと私のために一生懸命考えてくれて、最終的にそれは給料やボーナスの形でちゃんと振り込まれていた。私たちのためを考えてくれる素晴らしい人だったんだ」と言い始めるんです。その頃、僕たちは彼女の言に従って、宇多田氏の名前こそ出していないけれど、「宇多田ヒカルに印税問題が起こっているようだ」とテレビで報道しているんです。エーッてなもんですよ。

というわけで3月の後半に、いったん彼女の気持ちは宇多田さんのもとへ戻ってしまうんですね。その時はまだ、彼女が梨元と話をしているとは、宇多田さんは知りません。彼女は急に、「いろいろ聞いてもらったけれど、もう連絡しません。これを最後にしましょう」と電話してきた。なんだか別れ話みたいになっちゃったんです(笑)。

ところが4月15日にまたすさまじい事件が起きるんです。いままでのように電話がかかってきて、「梨元さん、聞いてください。私は許せない。あの人が私に暴力を」と。数日後にわかるのは、4月の初めから1週間、宇多田さんはヒカルとニューヨークにレコーディングに行ったんですね。帰ってきたあと、数日の間行方不明になってしまう。連絡がとれずに東芝EMIも困ってしまう。この間、M子さんと一緒にいるんじゃないかと彼女は疑うわけです。

帰ってきた宇多田さんが後で言うには、仕事先の大宮で熱を出して入院してしまった、と。彼女はまだ疑っているから、事務所を出た宇多田さんをつけるわけです。宇多田さんは車で移動するかと思ったら、歩き始めちゃった。彼女も歩いていたら、永田町のあたりで隠れるところもないですから、すぐにバレてしまった。「おまえ、なんだ」と言うので、口論になって突き飛ばされた、と言うんです。

5月の31日に、僕が彼女の携帯に電話したんです。そうしたら、「梨元さん、今日は私は本当に嬉しかった。ヒカルの卒業式だったんですよ」。僕は知らなかったんですが、『調布の森』というところで夕方からアメリカン・スクールの卒業式が行われたそうなんです。彼女も参加したし、宇多田さんも来てくれた、と。その頃宇多田さんは事務所に泊まっているなどと言いながら、彼女とヒカルが生活するホテルには帰っていない。仕事の時にヒカルを迎えに来るだけなんです。ところが、「宇多田さんもとても喜んでくれた。家族の絆って本当に素晴らしいと、今日は実感しました。私たちは幸せなんです」と彼女は言う。

ほんの数日前には、「私たちの泊まっているホテルに宇多田さんの車が止まっていた。絶対に同じホテルでM子さんと会っていたんだ。許せない」などと言っていたんですよ。僕も疲れちゃったから、「わかりました。本当にもう円満にしてください」と言って電話を切ったんです(笑)。

そのうちに、彼女が原因というわけではないけれど(笑)、僕が肺炎で熱を出して入院したりして、6月の初めから3週間ほど大変でした。忘れもしない6月21日の夜。僕は病院で点滴を受けていたんです。もちろん携帯電話は切っています。でも虫の知らせか、電源を入れたらメッセージが1件残っていた。聞いてみたら彼女の声で、「梨元さん!」って、もう点滴の針が抜けそうな勢いなんです。「見つけました!実は今、新宿の○○ホテルに来ているんですが、ここに宇多田さんがM子さんと一緒に泊まっていまして、部屋番号は4401です。今日は私、夜遅くまでここにいるつもりです。宇多田さんは今外に仕事に行っています。中にいるM子さんは中からロックしていてドアは開きません。こういうことで、二人は同棲しているとわかったので、もう肩の荷がおりました。離婚を発表します。二人を取材してほしいから、すぐに来てください」ということなんです。

そうは言っても、クレージーキャッツのコントじゃないんだから点滴刺したまま行けませんよ。というわけで枕元にあった病院の電話でかけたら、ようやく連絡がとれた。

彼女はすでに、別のフロアにスイートルームを取って、部屋に入っていた。二人の部屋の前まで行ったけれど、フロアの責任者がきて、「ここは宇多田さんのお部屋ではありません。お引取りください」と言われた後だったんですね。別のスイートで、4401の部屋にいる人と連絡が取りたい、返事を下さい、とホテルの人と交渉し続けたけれど、M子さんが宇多田さんに連絡を取ったので、結局彼はそこに帰ってこなかったんです。「確証をつかんだのだから、もう離婚します。明日記者会見します」と彼女は言いました。

翌日、僕は『スーパーモーニング』でこの件について放送している。取材のために彼女がホテルから連絡を取ったスポニチは朝刊で「離婚」と報じている。昼過ぎに東スポ(東京スポーツ)が出たら、僕が「彼女から電話があった」と書いている。それはそうですよ。だって、彼女がそう言ったんです。ところが、その後彼女の気持ちはまた変わってしまうんです。

「東スポの記事を見て、宇多田さんがすごく怒っている。おまえがしゃべたんだろうって激怒しています。私が梨元さんに『宇多田が殴った』とか、いろいろ言っているから、本当に怒っていますよ。1回くらいなら喋ったと言ってもいいですけれど、後は自分で調べたということにしてほしかった。本人は私に、いまに見ていろ、おまえに復讐してやる、と言っています。すごく怖い人ですよ。おまえをクビにするのは簡単だ、給料もやらない、ツアーが終わったらおまえをどうにかする、と脅かしています。クビになったら私はどうしたらいいんですか」と言うんです。

ちょっと待って下さい、あなたは何も悪いことしてないんですよ、僕が言うのも僭越ですけど、これは宇多田さんの女性問題なんですよ、と言っても、「それはそうなんだけれど、怖いんです」と、完全に主客転倒しちゃってる。

しばらくしたらまた電話がかかってくる。

「さっきはちょっと言いすぎました。梨元さんは梨元さんで、私のためを思って書いてくれたと思いますけれど、私があまりしゃべっていると宇多田さんに知られて困ったな、と思ったんです。内容は別に間違っているわけではありませんし」と言う。もう何だかわからない。

2,3日後、僕が正式な退院間際に地方で仕事をしていたら電話がかかってきた。結局はこういうことなんです。

「M子さんがあのホテルを出ました。今はもう二人がどこにいるのか、よくわかりません。私が言いたいのは、とにかく私は離婚したいのだけれど、宇多田さんが離婚したくないと言うんです。宇多田さんがまた怒ったら困るんですが、私としては子供のためにも考え直して3人でやっていきたいと思っていますので、どこかでそう伝えて言っていただければいいんですけど、宇多田さんには宇多田さんの考えがあって行動しているんだろうから、宇多田さんが好きなようにできるよう、サポートしていくのが妻の役目だと思っています」

「じゃあ、許すんですか?」と聞くと、そこは理路整然としていて、「許すということは認めることだから、嫌だ。ヒカルのためにも私がこれ以上追求しなければいいんだ」と言うんです。

「宇多田さんはタレントじゃないから記事を書かれてすごく苦しんでいる。私は何を書かれても慣れていますけど、彼は悪者に書かれて苦しんでいる。19年間、彼は私にはとてもいい人だったし、彼のおかげで人生、助けられたと思っていることがたくさんあるので。私がただヤキモチをやいて、離婚だって騒いだけど、忙しくて彼もイライラしていたんでしょう」

「タレントじゃないといったって、彼はインタビューを受けていますし、完全な一般人じゃないですよ」と僕が言っても、「いいんです。彼は今回のことで、みんなにひどいひどいと言われたけど、私たちのために10倍、20倍、30倍も働いてくれた。私たちのことを思っているとわかりました。宇多田さんとヒカルにめぐり合ったことを神様に感謝して生きてきたのに、こんなことぐらいで私が騒いで、宇多田さんやヒカルに迷惑をかけてしまった。宇多田さんのこと、もうこれからは何も言いません」と。

また違う日には「梨元さん、18歳になったら、子供は親を選べるんです。だからヒカルが18になるまで待てばいいんです。でも長いですよ」と言う。長いと言っても、あと半年かそこらですよ、と言うと、また別の日に、「ヒカルが20歳になるまで見守りたい。親子3人でニューヨークに行って暮らしたい」と言う。毎日のように気持ちが変わってしまうんです。

ともかく、一貫しているのはヒカルのために我慢するんだ、ということですね。それから彼女独特の哲学があるんです。僕が「宇多田さんが彼女と別れればいいじゃないですか。ここまで家族を追い詰めて、彼は一体、何をやっているんですか」と言うと、「そうじゃないんです。私は、人が誰かを好きになるのは止められないと思っている。その人の気持なんだから、彼女と別れてくれとは言えない。でも、結婚していれば誰かが苦しむ。当然、私が苦しめられる。これは嫌だから、私と別れてほしい。私を解放してほしいんです」。

「藤さん、これは宇多田さんの浮気なんですよ」と僕が言ったら、「男は浮気するでしょ。梨元さんは浮気したことないんですか」と逆に聞かれて、「いやいや、それはべつに」と黙ってしまいました(笑)。

藤圭子の言っていることが日によって全く変わってしまうので梨元氏も対応に面食らったと思います。藤圭子は照實氏の浮気でストレスフルな状況だったのでしょう。感情が不安定になっています。照實氏の浮気問題の渦中で、ある日には照實氏を非難していたのに、別のある日には照實氏を称賛しています。

この離婚騒動ではヒカルもかなり精神的につらい状況に立たされたようです。2000年7月の週刊文春に宇多田家をよく知る知人が藤圭子から聞いた話が掲載されています。

「知人」に藤はこんな秘話まで打ち明けていた。

「杉並の自宅で生活している頃、ヒカルが何度も涙を流しながら、「私、ノイローゼになりそう。もう、どっちの言い分も聞きたくない」と、大きな声で訴えたことがあったんです。

ホテルに移ってからも、3月初旬にバスルームで壁を叩きながら大声で泣いたことがありました。これは私達のことだけでなく、レコーディングなど、いろいろなストレスが溜まっていたのだと思います。

 (中略)

ヒカルは「苦しいけど、自分のため、ファンのためにやっているんだ」と、外向けには明るく振る舞っていたんです。ヒカルのためにも、私は一刻も早く、落ち着いた生活を取り戻したいんです」

ヒカルのためにも離婚騒動にケリをつけたいという母親としての藤圭子の思いがうかがえます。

このときの離婚騒動では、藤圭子はスポニチの圭子番記者である阿部公輔氏にも約半年間に渡って連絡を取っており、6月21日には照實氏の不倫相手がいるホテルに阿部公輔氏を呼び出しています。2013年8月27日のスポニチから引用します。

毎日連絡があった。宇多田のデビュー翌年の2000年頃は1日に6、7回電話があり、時間の感覚を失っていたのか、午前4時ごろにかかってくることも。宇多田に「嵐の女神」という歌があるが、藤さんからの電話はまさに“嵐の前兆”で、家族など周囲への不満が爆発した時。ひたすら、なだめるしかなかった。

それが噴火してしまうのが、2000年6月の離婚騒動。半年近く本人を説得してきたが「不倫現場をつかみました。離婚届に判を押します。阿部さんが来ないなら、ほかにしゃべる」と言うため、西新宿のホテルへ急行。すると、不倫相手がいるというスイートルームのドアを叩きながら「ドアスコープ」と呼ばれる小さなレンズをのぞきこみ「いるいる!」と叫ぶ。外から部屋の中を見ることはできないのに。でも、別部屋で落ち着かせて、しばらくなだめると「宇多田(照實)さんは自分を人生のどん底から救ってくれた人」と言う。

生前、照實さんとの離婚回数を「書類上6、7回。実質は13回くらい」と明かしていた。

「人生のどん底」というのは、一時引退した1980年に一緒に暮らすはずだったジャーナリストの沢木耕太郎に裏切られたときのことを指しているものと思われます。そのどん底状態を救ってくれたのが照實氏でした。藤圭子は照實氏の不倫現場を押さえて離婚宣言をしますが、その3日後に撤回しています。

梨元氏は〈彼女の電話はいつも、前後の説明抜きで一方的に始まる〉と書いているように、藤圭子は相手の立場にたって、相手に気を使う、ということができなかったようです。同じようなことは石坂まさをもその著書『きずな』で書いています。ヒカルを歌手に育てるために日本と米国を往復しながら生活していた時、ヒカルに出国することになることを出国日の前日になってからようやく話した、というエピソードも納得できる気がします。

日によって感情が不安定になっていた藤圭子ですが、最終的には照實氏を理想化しています。藤圭子にとって照實氏は時々問題を起こすことがあったとしても、結局はパートナーとしての関係を続けていきたい大切な存在だったのでしょう。

食うや食わずの藤圭子が林家三平とすごした意外な過去

石坂まさをは作詞家時代の初期に初代林家三平の曲を作詞したことがあり、その縁でデビュー前の藤圭子は林家三平の家へたびたび通うようになります。1970年7月発行の週間明星がそのことを取り上げていますので抜粋して引用します。

おととしの春、藤圭子を発掘したときも、沢ノ井氏は彼女をまっ先に三平師匠のところへ連れて行った。当時、彼女はまだ両親といっしょに日暮里のアパートに住んで、流しをやっていた。日暮里から三平師匠の住む根岸は目と鼻の先。それから1日おきくらいに遊びにいくようになる。もちろん師匠は仕事に出ていてほとんど留守だが香葉子夫人を始め、一家の人たちから「純ちゃん、純ちゃん」とかわいがられた。
「あのとおりの美人なのに、ちっともそれを鼻にかけるようなところがなくて、気持ちのいい子でした」と香葉子さんはいう。
「お手伝いさんが編み物などをしていると、じっと見ていて ”こんど教えて下さいね” と頼んだりしていましたけど、やっぱりああいう境遇で、女の子らしい手仕事を覚える暇がなくて、憧れていたんでしょうね」

記事ではおととしの春に石坂まさをが藤圭子と知り合ったことになっていますが、そうすると1968年の春になります。一般には二人が知り合ったのは1968年の秋ということになっており、食い違っています。単なる間違いでしょうか。

そのうち、今までの家をこわして新築することになり、おととしの12月15日に棟上式が行われた。
「そのときの余興に、純子ちゃんを呼んで歌ってもらったんです。初めは2〜3曲のつもりだったのが、棟梁たちにひどく受けちゃいましてね。アンコールにつぐアンコールで、とうとう17曲ぐらい、ぶっつづけに歌ってもらっちゃった。たまたまひどく底冷えのする日で、途中からみぞれが雪に変わったんだけど、その日が棟上式だから屋根もなんにもない。髪の毛までびしょぬれになって、1時間あまり一生懸命歌っている純子ちゃんを見て、ああ、この根性なら必ずものになると思いましたよ。もう一つ感心したのは、終わってご祝儀をあげたら、お礼にもう1曲歌わせてもらいますと言ったこと。芸人はこのサービス精神がなくちゃいけません」

それからは、誕生パーティや新築祝いなど、三平師匠の家で何かあるごとに、彼女が呼ばれていって歌うのが恒例になった。

あるソースでは藤圭子は林家三平の家に住込みで暮らしたとしているものがありますが、この記事によればそうした事実はなかったようです。また香葉子夫人は昨年暮れに放映された藤圭子のドキュメンタリー番組で、当初藤圭子の一家はガード下で暮らしていたと話していますが、おそらくそれは記憶違いだと思われます。

同じ頃、藤圭子は、初めてテレビに出演した。終わって、会場の東京タワーから、まっすぐ根岸の三平宅へ。
「私としては、そのときのことが忘れられないんです」
と香葉子夫人がいう。
「純ちゃんがテレビに出るということは、その前から聞いていましたから、ビデオレコーダーに取っておいて、さっそく見せてあげました。驚いたことに、純子ちゃんは何時間たってもその前を離れない。何回も何回も繰り返しかけて、マイクの持ち方がどう、口の動かし方がどうと、こまかく研究しているんです。なんて熱心な子だろうと、そのとき改めて感心しました。

私の方から ”もういいでしょ、それより早くお母さんに報告していらっしゃい” と言うと、 ”おかみさん、お金がこれしかないんです” と言って、ガマグチをさかさまにしたら、転がりでたのが10円銅貨3つ。純子ちゃんのしぐさも可愛かったけど、これがレコードの吹込みもすませ、テレビにも出てきた子なのかしらと思って、いじらしくなりました。

直立不動の姿勢で凄みを利かせた歌唱を行っていても、どんなふうに見えているのかはとても気になっていたようです。このときのテレビ出演は、記事によれば1969年11月に行われた新宿25時間キャンペーンの頃といいます。当時はまだ月給も少なく、デビュー当初の藤圭子の困窮ぶりがうかがえます。

50年ぶりの藤圭子 歌っていれば … 五木寛之

週刊新潮に『50年ぶりの藤圭子』というタイトルで五木寛之が記事を書いています。1970年に初めて彼女の歌を聴いたときの衝撃を書いた後、藤圭子が五木寛之が作詞した『旅の終わりに』という曲をカバーしていることを知り、早速その歌を聴いたことが書かれています。同誌から抜粋して引用します。


先ごろ、ある人から、

「藤圭子の『旅の終わりに』は、あれはいいですねえ。抜群にいいです」

と言われてびっくりした。

「え、それなに? ぼくはぜんぜん知らないけど」
「あるんですよ。ご存じなかったんですか」

『旅の終わりに』というのは私が若い頃に詞を書いたコテコテの歌謡曲である。冠二郎さんが歌って、いい味をだしていた。その後いろんな歌手がカバーしているが、藤圭子が歌っているとは知らなかったのだ。

 (中略)

早速、聴いてみると、50年前の記憶が不意によみがえってきた。

『旅の終わりに』を歌う藤圭子の声には、デビュー当時の凝縮した怨念はない。淡々と歌っていながら、歌手としての天与の才能が流露している。すでに薄幸の少女歌手ではなく、余裕を持って歌と対峙している自信を感じさせるところがあった。

〈(前略)歌い続けることによって自分に取り憑いたデモーニッシュな才能を発散し続けていったら、彼女は自分を救えたのではないか〉

と福寛美氏(『歌とシャーマン』の著者)は書いている。

今度のミュージックBOXの中に収められた『旅の終わり』を聴きながら、私もそう思った。


歌い続けていたら死ぬことはなかっただろうと五木寛之は書いています。しかし歌い続けるということは、藤圭子がそれまでの芸能活動で関わってきた人間関係が再び活発化するということもであります。

藤圭子は、その芸能生活の中で営業を行う際に、全国有数の暴力団組長とも親しい関係を作っていたと考えられます。暴力団幹部との折衝には、事務所の専務だった石坂まさをがあたったのでしょう。

藤圭子が歌手活動を行うということは、全国の有力暴力団ともつながりを持つことになるということを意味します。すでに芸能人と暴力団との関係に批判が高まっていたとしてもです。暴力団が藤圭子を足がかりにして、莫大な金額を稼ぐ宇多田ヒカルの利権に介入したいと考えていたとしても不思議ではありません。そうなれば過去に営業でお世話になった人の要求を無碍に断ることは難しくなります。

藤圭子自身は宇多田ヒカルのデビューに連れて、自分もポップス調の新しいスタイルでのデビューを切望していたようです。ですがそのことで宇多田ヒカルのスキャンダルになることを避けるために、周囲からの説得を受け入れて歌手活動の再開を断念したと思われます。

歌手として再起する道を絶たれた藤圭子は、糸の切れた凧のように迷走をはじめます。宇多田ヒカルのプロデュース方針などをめぐって照實氏などとたびたび衝突を繰り返すようになりました。

1997年5月の週刊読売で藤圭子は、曲を作るプロデューサーとしてもやっていきたいと話しています。歌えなくなった藤圭子は宇多田ヒカルのプロデュースを行いたかったはずです。ですがその道も照實氏に独占されてしまったようです。

不可能なことではありましたが、私も藤圭子が歌を歌えていれば、あるいは、ヒカルのプロデュースに部分的にでも関わることができていれば、あのような悲劇的な結果にはならなかったと思います。

藤圭子の思想 松田政男

藤圭子という存在に注目すべき評論を行っている記事がありましたので紹介します。タイトルは『藤圭子の思想』、著者は政治運動家で映画評論家の松田政男。1970年8月発行のサンデー毎日から掲載します。


演歌、艶歌、怨歌ーーーどう表記してみても、エンカはエンカである。ただし、援歌とだけはどうしても書きたくないのだが、ともかく、エンカについて、ふつう流布されている誤解をひとつだけ正しておきたいと思う。

エンカが私達の暗い心情の奥底にひそむ、ある名づけようもない感性を引き出してくる一種の浄化作用を持っていることは、私たちのしばしば経験するところである。藤圭子のエンカを聞くとき、私たちはまさに同時に、私たちの中の日本人としての血が潮騒にも似たざわめきをあげてかすかにゆらぎだすのを、どうしようもなく聞き取ってしまうのだ。つまり、藤圭子という〈外なるエンカ〉に私たちの〈うちなるエンカ〉が励起され、そして共鳴するのである。藤圭子とは、この世紀末におけるたぐいまれなる巫女の別名なのだ。

私たちは、しからば、私たちにおける〈内なるエンカ〉の目覚めをもって喪われて久しい私たちの〈ふるさと〉を遥かに想起し、共生感に浸り込もうとしているのであろうか。アスファルト・ジャングルの超近代のなかで、忘却のかなたに押しやられてしまった土着の香りを、私たちは藤圭子のエンカを聞く時に、ふと懐旧するのであろうか。私は、通常の理解とは異なって、決してそうではないと考える。なぜか。土着の権化ともいうべき東北地方の一隅、岩手県一関に生まれ、北海道旭川で育った藤圭子の流転の前半生が、逆説的に私の考え方を証明している。〈ふるさと〉は恋しからずや? と問うたある週刊誌のインタビューに対して、藤圭子はさりげなく答えている。

〈帰ってみたいとも思わないわ。人間て、どこに住んでもおんなじだし、みんなそれぞれ、生きて行くんだし…〉

エンカとは、決して、望郷の歌、故郷を恋うる歌ではない。それは流亡の歌、故郷を喪失したものたちの歌なのだ。そして、私たちが外なるエンカと内なるエンカの二重構造がかもしだす妙なる音域のなかにわれとわが身をたゆたわせる時、その時、私たちは不可視の〈ふるさと〉をありうべからざるコミュニティーを垣間みることができるかもしれないのだ。藤圭子の思想とは、ハイマート・ロス(故郷喪失)の思想である。