藤圭子はなぜ自殺したのか

自殺した人の原因や理由を推測することは容易なことではありません。藤圭子の場合は遺言書は残されていましたが遺書はありませんでした。自殺した当人でさえ自殺の理由を理解していない場合もあると思います。藤圭子はなぜ自殺したのか。その理由を推測するには、当人が生前話していたことや、家族や知人の話を手がかりにするしかありません。

ここで注意しなければならないことは、藤圭子を「理想化」しては事実から離れるばかりだということです。藤圭子ファンの中には自殺の理由を理想化し、藤圭子がなにか崇高な目的のために自殺したと主張する人がいます。どう推測しようがその人の自由ですが、それには具体的な根拠が必要です。残念なことに、そうした主張には具体的な根拠が示されていません。また自説に都合の悪い事実を無視しています。

この記事ではそのような藤圭子ファンのバイアスがかからない、事実をもとにした藤圭子自殺の原因や理由を考えていきます。

自殺の背景に精神疾患

2013年8月26日に宇多田ヒカルがコメントを発表しています。抜粋して引用します。

幼い頃から、母の病気が進行していくのを見ていました。症状の悪化とともに、家族も含め人間に対する不信感は増す一方で、現実と妄想の区別が曖昧になり、彼女は自身の感情や行動のコントロールを失っていきました。私はただ翻弄されるばかりで、何も出来ませんでした。

藤圭子の「精神の病」を考える場合、ここでの「妄想」をどう扱うかが重要です。照實氏は身に覚えのないことで理不尽な罵声を浴びせられたといいます。ヒカルは、家族も含め人間に対する不信感は増す一方で、現実と妄想の区別が曖昧になり、と述べています。

「妄想」と聞けば普通の人は統合失調症を連想します。ですが統合失調症の妄想は「現実と妄想の区別が曖昧」というような曖昧なものではありません。統合失調症の典型的な妄想は「秘密の組織に命を狙われている」といったおよそ現実にはありえないような内容です。それに対して現実との区別が曖昧という妄想は、境界性パーソナリティ障害らしい妄想といえます。

境界性パーソナリティ障害では親密な関係にある人との間で症状が起きます。藤圭子は別居していましたが、照實氏、ヒカルと連絡をとっていました。藤圭子はそうした状況の中で、ずっと昔にあった嫌な出来事が時々フラッシュバックのように思い出され、それと同時に様々なつらい感情も沸き起こり、前後の説明抜きで照實氏やヒカルに電話でその感情をぶつけるので、言われた方はなぜ非難されるのか理解できなかったのだと思います。

藤圭子が精神疾患を患っていたことは多くの知人らの話から明らかです。藤圭子の精神疾患は高機能型の境界性パーソナリティ障害の可能性が高いということは別の投稿で明らかにしたとおりです。その発症は沢木耕太郎から裏切られた1980年か、遅くとも母親から裏切られた1988年と考えられることも別の投稿で明記しています。

境界性パーソナリティ障害では、衝動的で感情が不安定という症状があります。こうした症状が家族など特に親密な人との間で起きたと考えられます。衝動的で感情が不安定であると、自己のアイデンティティーが不確かになります。これが自分だという感覚、どのような状況でも自分は自分であるといった感覚が持てなくなります。宇多田ヒカルのデビュー後、藤圭子を「封印」せざるを得なかった藤圭子は、歌手としてのアイデンティティー失いました。確たるアイデンティティーを失うと、境界性パーソナリティ障害に特徴的な空虚感も強く感じていたものと思われます。

芸能界から完全に断絶した晩年の藤圭子は孤独になります。感情のコントロールが効かず、アイデンティティーを失い、生きていても仕方がないといった空虚感などの境界性パーソナリティ障害の症状は、晩年になるほど強くなったのでしょう。

境界性パーソナリティ障害では長期の経過のうちに8〜10%が自殺を完遂するとされています。若いときは大量服薬などの自殺未遂が多いですが、高齢になるほど確実に死ねる方法を選び、自殺率が高くなるといいます。

藤圭子の自殺には境界性パーソナリティ障害を患っていたことが影響していると考えられます。そのうえで注意しておきたいのは、症状が起きていないときは普通の人と変わらないということです。理性的に考え行動することができます。そのために症状が起きていたときにとった理不尽な言動について強い自己嫌悪に陥るという面があります。

ギャンブル依存による経済的困窮

藤圭子は2006年にケネディ国際空港でギャンブルに使うために持参していた49万ドルもの現金を没収されています。藤圭子は自分一人でカジノに行くと、有り金全部使い切ってしまうので、掛け金を使いすぎないようにするために元マネージャーの男性と一緒に世界中のカジノを訪れています。

使うお金を自分で制限できないのはギャンブル依存の特徴です。藤圭子は若いときから賭け麻雀に熱中していました。1回の掛け金も50〜60万円というとんでもないレートだったと、一緒に賭け麻雀をした知人が話しています。しかも現金払いじゃないと怒って、いつでもまとまった現金を持っていたといいます。

宇多田ヒカルが莫大なお金を稼ぐようになると、事務所の副社長だった藤圭子は毎年1億円を超える収入を得るようになります。藤圭子はギャンブル依存で世界中のカジノを舞台にして大金をバンバン賭ける様になり、収入のほとんどをギャンブルで溶かすようになります。

そうした行動がいつまでも続けられるはずがありません。藤圭子は2005年に事務所の副社長を辞任しています。2007年に照實氏と離婚した際にある程度まとまったお金を手に入れ、2009年には米国当局に押収されていた49万ドルを返還されていますが、ギャンブル依存によりそれらの大金もあっという間に失ったと考えられます。

収入源を失った晩年の藤圭子は経済的困窮状態に陥ります。2013年8月26日のNEWSポストセブンから抜粋して引用します。

「彼女の金遣いの荒さは業界でも有名。海外ではカジノ三昧だし、東京・新宿のホストクラブでは目が飛び出る額の高級シャンパンやワインをどんどん開けていたという噂も聞いた。近年はロスに借りていた超高級マンションの家賃の振り込みも滞ることがあり、東京に戻ってきていたらしい。ある知人には “今はもう2000万円くらいしか持っていない” と話していたようだ。カネが尽きるのは時間の問題だった」(藤を知る音楽関係者)

週刊朝日 2013年9月6日号から抜粋して引用します。

芸能関係者によると、藤が港区内に所有していた未居住のマンションを近々売却する予定で交渉を進めていたといい、金策が必要な状況だったのかもしれない。

一般的な人にとって2,000万円は大金ですが、桁外れな金額をギャンブルなどに使っていた藤圭子にとっては、少額だったのでしょう。事務所の副社長を辞任して収入が激減したであろう藤圭子にとって、経済的困窮は自殺に何らかの影響を与えた可能性があります。

自殺の引き金となった石坂まさをの死

藤圭子育ての親である石坂まさをは2013年3月9日に亡くなっています。その後に石坂まさをを偲ぶ会の開催日が決められたと考えられます。その情報は知人を介して藤圭子に伝えられたのでしょう。2013年9月4日のアサ芸プラスに、藤圭子復帰時に音楽プロデユーサーを務めた酒井政利は、藤圭子と共通の知人を介して、藤圭子が8月23日に行われる石坂まさをを偲ぶ会に出席すると聞いていたと話しています。

宇多田ヒカルは藤圭子が亡くなったことについてのコメントで、「今年のはじめに書かれた遺言書があった」と述べています。この ”今年のはじめ” が具体的にいつなのか明らかではありませんが、3月に書かれた可能性があります。そうであれば8月22日に自殺することにそなえて遺言書を書いていたとも考えられます。つまり藤圭子の自殺は衝動的ではなく、事前に決めていた覚悟の自殺といえます。

ヒカルのコメントによれば遺言書には、葬儀を行わず直葬にすること、墓に埋葬するのではなく、海へ散骨すること、と書かれていたことになります。いかにも藤圭子らしい遺言です。

1981年に藤圭子と会話を交わした芸能記者の本田圭氏が藤圭子について ”芸能界への恨みつらみを延々語り… 当時から、藤さんは芸能界というもの自体に怨念を持っていたのかもしれない” と評したように自分の葬儀に芸能界の人たちが集まることをとても嫌っていたのでしょう。藤圭子は1997年10月に発売した「男と女」を作詞しているのですが、その3番の歌詞は、自分が亡くなったら海へ散骨することを示唆する内容となっています。

先日の記事でも指摘しましたが、晩年の藤圭子は石坂まさをを強く憎んでいます。この事自体は藤圭子が患っていたと考えられる境界性パーソナリティ障害の症状のためだと思いますが、その場合に偲ぶ会の石坂まさをに「抗議の自殺」を決行するということは、境界性パーソナリティ障害を患っていたとすれば十分あり得ることです。藤圭子を理想化したい人にとっては身も蓋もないことでしょうが。

石坂まさをを偲ぶ会の主賓は藤圭子本人だったはずです。その当人が石坂まさをを偲ぶ会の前日に自殺したので、偲ぶ会はなんともいえない雰囲気になったと思います。偲ぶ会の当日ではなく、前日の朝7時頃に自殺を決行したのは、偲ぶ会の出席者のほぼ全員が藤圭子の自殺を知っている状況にしたいと藤圭子が考えたためでしょう。

藤圭子はマンション前の幅5メートルほどの歩道を越えて車道に落下しました。当時、目が悪くなっていた藤圭子は眼下の歩道を歩く人が見えなかったため、マンションのベランダに立ち、歩行者を巻き込まないように力いっぱい蹴って飛び降りています。飛び降りた際に脱げた片方のスリッパがマンションのベランダに残されました。

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藤圭子は境界性パーソナリティ障害による慢性的な生きづらさを感じていたと思います。境界性パーソナリティ障害は一人で生きていくことがつらい精神疾患です。ですが親密な関係の他者との間では感情の不安定さが惹起され、親密な他者の方も甚だしくつらい状況に置かれることになるのが一般的です。ですから照實氏やヒカルが藤圭子と一緒に暮らせなかったことは止むを得ないことだったのでしょう。

藤圭子は境界性パーソナリティ障害による慢性的な生きづらさを背景として、そのうえに経済的困窮状態に追い込まれました。そうした厳しい状況で石坂まさをを偲ぶ会の知らせが来たのでしょう。そのことで石坂まさをへの抗議の自殺を決意したのだと思います。

週刊現代 2013年9月7日号が、自殺の2週間ほど前の藤圭子の行動を報じています。

実は藤さんは自殺する2周間ほど前、ある女性のもとを訪れている。瞽女として、目が不自由な母・澄子さんが三味線を弾きながら全国を旅していたのに付き添っていた女性で、藤さんにとっても幼少の頃から面倒を見てもらった人物である。

すでに澄子さんは10年に亡くなっており、藤さんは彼女を母親の代わりのように感じていたのかもしれない。その彼女のもとを久しぶりに訪れた藤さんは、表面上こそ元気だったものの、一方的にあれこれと話すだけで、会話らしい会話をせぬまま去ったという。

藤圭子は何十年ぶりに会ったというのに、一方的に話すだけ話して去ったといいます。この対面は自殺する覚悟を決めていた藤圭子が、最後の別れを告げるためだった可能性があります。

藤圭子の自殺について誰かに責任があるとはいえません。藤圭子が照實氏と結婚し、ヒカルが生まれ、大歌手となったことは藤圭子が望んだ夢が実現したことになります。ですがそのことで自らの歌手活動を封印せざるを得なかったことは、藤圭子にとっては想定外のことだったのでしょう。

藤圭子は長年の夢を実現することと引き換えに精神的に不安定となりました。夢を実現した藤圭子は自殺することで長年の精神疾患の苦しみから解放されたといえます。

藤圭子の一生を俯瞰してみると、不完全燃焼に終わった歌手活動や精神疾患を患った事も含めて、歌手・宇多田ヒカルを世に送り出すための人生だったと思えてきます。

藤圭子はなぜ石坂まさをを憎んだのか

2000年から藤圭子番となったスポニチの阿部公輔氏が2006年頃の藤圭子について話しています。2013年10月4日のアサ芸プラスから引用します。

一方、圭子はデビュー当時のキャッチフレーズだった〈怨念〉を、何度となく言葉にしている。
「この世で一番、憎んでいるのは母親と石坂まさを」

藤圭子は1988年に絶縁していた父親から、母親の澄子さんがギャラを着服していたと聞かされ、絶縁しています。ですから藤圭子が母親を憎む理由は分かります。ですが石坂まさをを憎むようになった理由が判然としませんでした。

藤圭子は1992年と1994年の2度石坂まさをと会っています。1992年に会った目的は当時9歳の宇多田ヒカルを売り込むことでした。1994年は宇多田ヒカルの売り込みもありましたが、主に藤圭子自身の売り込みでした。当時は「酒に酔うほど」を発売しており、演歌とは異なるそういった「新しい藤圭子」を石坂まさをに売り込もうとしています。

ヒカルを一流の歌手に育てようと一所懸命だった1990年代は、藤圭子の精神状態は比較的良好だったようです。ですから石坂まさをへの売り込みも行えたのでしょう。ですがヒカルの売り込みも「新しい藤圭子」の売り込みも、演歌の作詞家である石坂まさをとは分野が違うので当然断られるはずです。当時の藤圭子がそのことに無頓着のようなのは奇妙に思えます。

藤圭子の精神状態が極度に不安定となった時期には、一時引退してニューヨークで沢木耕太郎に裏切られた1980年、母親に裏切られた1988年、ヒカルの事務所の副社長を照實氏とヒカルから退いてほしいと言われた2002年以降があります。

藤圭子の精神の病は自傷行為や自殺企図が目立たない高機能型の境界性パーソナリティ障害であった可能性が高いのですが、その疾患では親密な関係にある人との間で症状が起きます。精神状態が不安定になると、症状が起きやすくなるのです。

藤圭子は1981年に歌手復帰記者会見を行っていますが、歌手復帰はないと宣言したにも関わらず1年半で歌手復帰を表明した藤圭子を批判するマスメディアがありました。月刊「創」1981年9月号に、藤圭子の復帰を批判する記事を書いた芸能記者の本多圭氏は、営業で立川のキャバレーに居た藤圭子に呼び出されて厳しく叱責されています。そのことについて本田圭氏は次のように回想しています。2013年8月24日の東スポWebから引用します。

筆者は藤さんが電撃引退して、2年足らずで復帰した姿勢について批判する記事を書いたことがあった。その記事に激怒した藤さんは、営業先だった立川市のキャバレーに筆者を呼びつけて、芸能界への恨みつらみを延々語り、深夜まで帰してくれなかったという苦い思い出がある。

ここで藤さんは、石坂さんに、金銭面でも労働面でも過酷さを強いられ、そこから逃げる意味もあって、電撃引退したようなことを話していた。

だが、復帰後の藤さんもその状況に満足しているようではなく、被害者意識が強かったような気がする。当時から、藤さんは芸能界というもの自体に怨念を持っていたのかもしれない。

歌手復帰を批判する記事を書かれた藤圭子は激怒したと言います。精神的に不安定となった藤圭子は石坂まさをや芸能界に対する被害者意識をあらわにしています。ですがこの被害者意識は精神状態が安定しているときは顕在化していないようです。

藤圭子は目上に媚びを売るようなことや自分を売り込むことは苦手だったのだと思います。そのため芸能界で生きていくには向いていなかったようです。ですから芸能界に対する被害者意識も生じたのでしょう。

2002年以降、ヒカルの事務所の副社長を照實氏とヒカルから退いてほしいと言われてから精神的に不安定となった藤圭子は、再び被害者意識があたまをもたげ、石坂まさをを強く憎むようになります。

境界性パーソナリティ障害では家族など親密な関係にある人との間で強い確執を生じるケースが多くあります。藤圭子が母親と絶縁したのはその表れといえます。一方、石坂まさをは家族ではありませんが、藤圭子育ての親であり、その意味でデビュー前後には家族同様の親密な関係にありました。

藤圭子は石坂まさをに金銭面でも労働面でも過酷さを強いられたと話していますが、確かにデビュー当初は月給が安く、仕事もハードな場合がありましたが、デビュー当初に人気が過熱した歌手では往々にしてあることであり、それもデビュー1周年を迎える頃からは金銭面でも労働面でもかなり改善しています。ですので藤圭子の石坂まさをに対する強い憎しみに正当性があるとは思えません。また藤圭子はたくさん嫌な思いをした芸能界に石坂まさをが自分を招き入れたことでも石坂まさをを憎んでいたようです。ですが藤圭子自身が芸能界に入ることに決めていたのであり、このことで石坂まさをを憎むのは筋が通らないと思えます。

こうした藤圭子育ての親である石坂まさをに対する強い憎しみの感情は境界性パーソナリティ障害の症状と言えるでしょう。

「とても人前に出られる状態ではありませんでした」 晩年の藤圭子

週刊現代 2013年9月7日号から抜粋して引用します。

本誌はごく最近まで彼女と付き合いがあったという人物に話を聞いた。それは衝撃的な内容だった。

「実は彼女は一時、千葉県の療養施設に入っていました。お酒も相当飲んでいましたし、アメリカで暮らしているころにはドラッグにも手を出していたようです。そういう生活で精神的に不安定になってしまったんです」

この知人によれば、娘・宇多田ヒカルさんの父親でもある音楽プロデューサーの宇多田照實氏と2007年に離婚した際、ある程度のまとまった金額を手にしたが、最近では決して裕福とは言い難かったという。

知人が続ける。

「離婚した直後からしばらく、彼女は恵比寿にあるウェスティンホテル東京に住んでいました。宇多田氏と別れると同時に、娘のヒカルさんともほとんど没交渉になり、その挙げ句が療養施設入りです。

そこを退院してからも、突然、昔の知り合いのところに電話しては、すでに亡くなっている人物について『私を騙していた』などと怒りをぶつけることもあったといいます。晩年は周囲のごく親しい人物さえも信用できないような状態だったんでしょう」

この知人に、

「藤さんはまだまだ歌いたかったんでしょうね?」

と訊いたところ、彼は即座に、

「とても人前に出られる状態ではありませんでした」

と断言したーーー。

「千葉県の療養施設」というのは精神科病棟だと思われます。入院は2007年以降のようです。藤圭子は自身の精神疾患を自覚し、治療するために入院したのでしょう。酒やドラッグに手を出したから精神的に不安定になったのではなく、精神的に不安定になったから、それを紛らわそうと酒やドラッグに手を出すようになった可能性があります。

「すでに亡くなっている人物」が誰かはっきりしませんが、母親の竹山澄子さんなのかもしれません。竹山澄子さんは2010年に亡くなっています。退院してからもすでに亡くなっている人物について怒りをぶつけることがあったといいますから、治療はうまくいかなかったのでしょう。

「最近では決して裕福とは言い難かった」ということから、金銭的に余裕のない状況となったようです。莫大なお金があってもギャンブルなどにつぎ込んで大半を失ったのだと思います。金銭面で困っていたという点については、藤圭子を古くから知る関係者も話しています。同誌から引用します。

「3年ほど前(2010年)でしたか、彼女から電話があり、『ちょっと相談に乗って欲しい』と言われました。会ってみると、照實さんへの不満や経済的困窮を切々と訴えてきたんです。

その場で、彼女は立て続けにブランデーグラスを空け、かなりすさんだ印象を受けました。

孤独や苦悩、人間不信を紛らわそうとお酒に頼っていたためか、精神のバランスを崩しているようにも見えました。

2010年12月に藤圭子のベスト盤CDが発売されています。これには金銭的に困っていた藤圭子が、CD発売で少しでもお金を得ようとした可能性があります。藤圭子は2009年にかつて米国当局に押収されていた4,900万円を返還されています。それだけあっても翌年にはお金に困っていたというのは、ギャンブルで大金を使いはたしていたからでしょう。

FRIDAY 2013年9月13日号から引用します。

「最近は白髪を伸び放題にして、口ひげすら目立ち、見る影もありませんでした。老婆のようにガリガリだったし、誰が見てもあの藤圭子とは気づかなかったはずです」(音楽プロデューサー)

2010年頃に撮影された藤圭子の写真があるのですが、それには白髪の藤圭子が写っています。口ひげが目立つというのは、極端な痩せになるとうぶ毛が濃くなることがあるためでしょう。竹山澄子さんの妹で藤圭子の叔母に当たる竹山幸子さんが2010年に藤圭子に会っているのですが、幸子さんによれば、藤圭子は1日にコンビニのおにぎり1個しか食べなかったといいます。慢性的なうつ状態で食欲がなかったのかもしれません。

8月22日朝、西新宿のマンションから飛び降り自殺した藤圭子(享年62)。同居男性と暮らしていた13階の部屋のベランダから身を投げた藤は、いつ一線を越えてもおかしくない「危険な精神状態」にあった。数年前、都内の裏カジノで藤を目撃した関係者は次のように語る。

「藤さんはバカラに熱中して、1コイン10万円のコインをバンバン張っていた。その店では何回も藤を見ましたが、いつも30代くらいの同じ男と一緒に来ていたんです。一晩で数百万円負けた日もありましたが、ケロッとしていました。でも、破滅願望があるような、乱暴な張り方だったのを覚えています」

藤を知るスポーツ紙芸能記者が言う。

「とにかく気持ちの浮き沈みが激しく、誰も信用できないため、いつもキティちゃんのバッグに大量の札束を入れて持ち歩いていた。浴びるようにウィスキーを飲んで、気を紛らわしていた時期もあります。2000年頃にパニック障害と診断され、千葉にある病院で治療に専念しましたが、長くは続かなかったんです」

ギャンブル依存は多くの場合、治るということがありませんから、藤圭子も晩年までギャンブルをやめることができなかったようです。バカラはトランプゲームの一種で、お金を賭けてプレイするバカラ賭博は、国内では違法とされ、取締も行われています。いつも30代くらいの同じ男と一緒に来ていたという男性は、藤圭子と同居していた元マネージャの男性でしょう。目が不自由になった藤圭子の足代わりとなり、バカラで藤圭子が有り金全部使い切ってしまわないよう、掛け金を管理する役目もはたしていたと思われます。ギャンブル依存は、境界性パーソナリティ障害で併発しやすい精神疾患の一つです。

「気持ちの浮き沈みが激しく」というのは、藤圭子の精神疾患の症状だと思います。藤圭子は境界性パーソナリティ障害であった可能性が高いのですが、その症状として、気分が落ち込んだと思ったら突然怒りを爆発させるなど、気分が数時間ほどの短時間で変化することがあります。こうした症状は、境界性パーソナリティ障害では家族など親密な関係にある人との間で起きます。

「2000年頃にパニック障害と診断され、千葉にある病院で治療に専念」とありますが、週刊現代の記事では2007年以降に入院したとあります。パニック障害と診断されても、入院は2007年以降だったのかもしれません。パニック障害は境界性パーソナリティ障害と併発しやすいことが分かっています。

週刊文春 2013年9月5日号にも藤圭子が精神疾患に悩んでいたという話があります。

ある芸能関係者は、「昔の彼女は周りのことを常に考えるような子でした。それがいつからか『パニック障害と神経症に悩んでいる』と告白するようになり、精神の不調を訴えるようになった」

記事から受ける印象は、藤圭子が晩年になってから精神疾患の症状がひどくなっているということです。歌うことをやめ、藤圭子を「封印」せざるを得なかったことが、症状がひどくなった原因の一つだと思われます。

デビュー後から約1年間は薄給で借金生活だった藤圭子

藤圭子の収入は歩合制ではなく月給制でした。大下英治著「悲しき歌姫」によれば、デビュー当初は2万円、翌年3月からは5万円、6月からは8万円、11月には50万円と昇給していったとあります。50万円は別として、それまでの藤圭子の月給は圧倒的な人気に見合わない少額だったことが分かります。

当時の週刊誌などでは、藤圭子の月給の少なさを指摘した記事がいくつもあります。1970年4月発行の週刊新潮から抜粋して引用します。記事のタイトルは「売上No.1の新人歌手 藤圭子一家の悲惨などん底生活」です。


だが、彼女の生活ぶりは、まだまだ出世街道の華やかさには程遠い。

彼女はいま、新宿・厚生年金会館の裏手、4畳半ひと間の古ぼけたアパートで一人暮らしをしている。実はこのアパートが、彼女の育ての親である沢ノ井竜二氏の所有であって、彼女はここで居候を決め込んでいる形なのだ。

何の奇もないシングルベッドが、新品というだけで、この部屋では異彩を放ってみえる。最近、地方のテレビ局に出たとき、番組の中のオークションで売れ残ったものを、1万円で譲ってもらって来たのだ。これでようやくセンベイ布団からは解放された。

ベッドの上には、ヨレヨレになったクマのヌイグルミが大事そうに置いてある。彼女は今でも毎晩これを抱いて寝る。

ベッドを除けば、小さな鏡台と洋服ダンスが家財道具のすべて。アクセサリーは、ファンから贈られた千羽鶴と人形が2つ3つ。テンプターズのコースターやパネルが目立つのは、彼女が意外にもショーケンこと荻原健一のファンだから。

給料は、当初3万円だったものが、最近ようやく5万円に昇給した。

使い道などはまだ聞くだけヤボだ。

「ほとんど衣装で消えちゃうんです。洋裁学校に通っている仲よしに頼んで安く仕立ててもらうんですけど、それでも舞台衣装ともなれば、4万円はかかるでしょう。やっと4着できて、取っかえ引っかえ着てるんですけど、それだけで大赤字ですから、あとは前借前借のやりくりで切り抜けているの」

最近いくらかでも印税が入り始め、借金のふえ方の止まったのが、いわば画期的な出来事なのだ。


1970年4月時点での給料5万円は、現在の価値に換算して大卒初任給くらいです。同年2月に発売した「女のブルース」がオリコン1位を達成して大ヒットしているにしては月給が少なすぎる状態です。

クマのぬいぐるみを抱いて寝るとありますが、2010年頃、59歳頃に、ゴリラのヌイグルミをリュックに入れて外出したときの写真が、藤圭子の死後に照實氏のツィートで公開されています。照實氏によれば、ゴリラのぬいぐるみが一番のお気に入りで、いつも一緒だったそうです。60歳前後になってもぬいぐるみを手放せないのは、精神疾患からくる不安感をぬいぐるみによって軽減しようとしたのかもしれません。

1970年6月発行の週刊サンケイから抜粋して引用します。記事のタイトルは「連続ヒットで月1千万円稼ぐ歌手が月給僅か5万円では…」です。


ウワサでは月に1千万円は稼いでいるのでは、といわれる歌手・藤圭子。あまり働きすぎてノドを痛め、5月中は医者通い。

稼ぎまくって、スポーツカーを乗り回し、藤御殿でも建てて両親と豪勢な生活−−と思いきや、彼女の両親は、盲目の母が三味線をひき、父親がその手をひいて民謡を歌って、夜の盛り場を流している。

「おかげで、彼女の稼ぎは、月に180万円はあります」

とニッコリするのは、藤圭子をかかえるKK藤プロの専務で、彼女のマネージャーでもある沢ノ井竜二氏。

しかし、消息通にいわせれば「とんでもない、彼女はいまやワンステージ30万円。その他、テレビ出演やレコードの印税を計算すれば、1ヶ月に1千万円は軽く稼いでいるよ」となる。

180万円と1千万円では、かなり違う。その差額の疑問はとにかく、笑いがとまらないほどヒットしていることには間違いない。それなのに、どうして彼女は両親を養えないのか。

マネージャー・沢ノ井氏は、「藤圭子が月に1千万円稼ぐって? とんでもない、ほんとに180万円ぐらいですよ。これまでに運転手付きの車やら、マネージャー3人、事務所の人件費などを含め、月に300万円、彼女にかけてきたんですよ」

つまり、これまで金を注ぎ込んできたから、1千万円稼いでも、純益は180万円にしかならないということか?

「藤圭子の給料は、実際には5万円しか払っていませんが、化粧品や衣装代などで計20万円はかかっています。住まいは私の家に同居で飲食を共にしている状態で、とても両親のめんどうをみるわけにはいきません」

という事情らしい。それにしても月1千万円であろうと、180万円であろうと、それだけ稼ぎながら月給5万円とは芸能界とは不可解なところである。


デビュー当初はかなり安い月給でしたが、紅白出場を果たした実績によって月給が大幅に増えました。1975年に事務所を藤プロから新栄プロに移籍したときの月給は200万円でした。通常、事務所を移籍すると月給は上がるものですが、新栄プロに移籍したときは200万円のままで変わりませんでした。つまり、藤プロでの藤圭子の月給はデビュー当初は別として、十分高給だったことになります。

過酷なスケジュールでダウンした藤圭子

藤圭子はデビュー翌年になると人気に火がつき、公演のスケジュールが過密化していきます。ワンマン・ショーでは1回で20数曲を歌うステージを1日に3回行い、それを1〜2ヶ月連続で公演するという過酷なものでした。肉体的な疲労が蓄積するうえに喉を痛め、かすれ声になってしまうこともありました。1970年6月発行の週刊平凡が伝えています。

「死ぬまで歌います!」
5月24日、川崎東映のワンマン・ショーに出演中、楽屋で倒れた藤圭子の悲壮なカスレ声。”謡人結節”(肥厚性声帯炎)という歌手独特の病気にかかりながら、この2ヶ月間がんばってきた彼女だが、積み重なる疲労には勝てなかった。しかし、周囲の強固な入院勧告にもかかわらず、楽屋で応急手当を受けただけで、この日も3回のステージをつとめ上げるというド根性ぶり。売れっ子の宿命といってしまえば、それまでだが、なんとか自重して欲しいものである。
 

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1970年5月の川崎東映のワンマン・ショーでは何とかやり遂げてその後に影響が出ることはありませんでしたが、1970年10月の浅草国際劇場でのワンマン・ショーはそうではありませんでした。1970年10月発行の週刊明星から引用します。

9月20日、浅草国際劇場の千秋楽、3回目のステージが終わって幕が降りたとたん、藤圭子はその場にヘナヘナっとくず折れ、オイオイ声をあげて泣き出した。客席の前の方にいた人たちには、彼女の泣き声が聞こえたはずだ。

関係者たちがあわてて舞台へかけ上がり、「よかった、よかった、大成功だよ」と、慰めたり、励ましたりするのだが、倒れたままの彼女は泣き止まない。これはただごとならぬと彼女を抱えあげて楽屋へかつぎ込み、注射をするやら、痛めたノドにシップをするやら……。そのまま彼女は、21日、22日と、いっさいの仕事を休んで寝込んでしまった。

「ほんとはもっと休ませなくちゃあいけないんだが……」と、公演中、つきっきりで彼女の健康管理にあたっていた村上ドクターがいう。

「仕事の事情が許さないというので、どうしようもない。気力とバイタリティだけに望みを託すような状態なんですけどね」

国際劇場の7日間を乗り切ったこと自体、”気力とバイタリティ”以外のなにものでもなかった。体調としては最低の状態で公演にのぞむまわりあわせになってしまったのだ。

初日のギリギリまで、スケジュールがびっしりつまっていた。しかも、前日の13日は盛岡公演。夜行で東京に帰り、そのまま国際劇場に入って、1回目の幕を開けるはずだったのだが、さすがに初日だけは1回目を抜くことになった。それも、休養のためではない。藤圭子自身が、「まだ稽古が十分できていないのに幕をあけては、お客さんに申しわけない」といって、その時間を通し稽古にあてたためだ。

こうして2回目から初日の幕が開いたが、関係者にとっても、本人にとっても、まさに薄氷を踏む思いの7日間だった。

藤圭子の場合、もともと低血圧症で、体質的に疲れやすい。その疲労は、すぐノドに来る。肥厚性声帯炎というやつで、いわば、ステレオであるべき声帯がモノラルになってしまう。その体調、そのノドで、激しい立ち回りをやり、1回に28曲という重労働を1日3回繰り返すのだから、たまったものではない。

ステージとステージの間に映画がはさまるのが、せめてもの救い。フラフラと足元もあやしく楽屋にたどり着くと、ウガイをすませるやいなや、バタンと倒れてしまう。村上ドクターが、飛びつくようにして注射を打ち、ノドにシップを巻く。ドクター婦人も、食欲のまったくない藤圭子のために、オジヤを煮たりして、栄養面から体力維持をはかる。

幕間の藤圭子は、囁くような声で、とぎれとぎれに言った。

「私のために、こんなにたくさんのお客さんがきてくださって、とってもうれしい。それだけにちゃんとした体の状態で舞台をつとめたかったんだけど、それだけが申しわけなくて……」

こういう状態で迎えた千秋楽だっただけに、最後の幕が降りたとたん、うれしさやら、くやしさやら、安心感やらで、万感胸に迫り、声を出して泣き出してしまったわけだ。

藤圭子は自筆の自叙伝を1971年2月から4回に渡って月刊平凡に連載しています。1971年5月号に掲載された自叙伝から、国際劇場に関する部分を引用します。

私がとうとう過労で倒れてしまったのは去年の9月20日、浅草・国際劇場で行われた『藤圭子ショー』の最終日。フィナーレの直後でした。13日の盛岡公演をおえて夜行で帰り、その足で翌14日、初日の国際劇場へはいりました。

生来の低血圧に大腸炎をおこし、ノドがはれる病気に過労が重なっていた私は、それでも村上先生(医師)に強心剤や鎮静剤の注射をうってもらって舞台を続けていました。

1週間の舞台をどうにかつとめ、らく日(最終日)のさいごの曲『命預けます』をうたいおわったとき、拍手のなかを、どんちょうが静かに降りてくるのが見えました。私の目は涙でかすみ、手を振りながら客席がしだいにボウーとにじんでいきました。

「圭子ちゃん……」

目の前に、涙をポロポロこぼして、私のからだを支えてくれる畠山みどりさんの顔が見えました。

〈私はまだ倒れてはいけないのだ。私にはもうひとつ、やることがあったはずだわ。母の目を手術してやるのだ。それができなかったら、歌手になった意味がない……〉

そうおもううち、畠山さんの顔もみえなくなり、私はその場へすわりこんで気を失っていきました。

9月21日から3日間、すべての仕事ができなくなり、私は病床にふさなければなりませんでした。そのために関係者の方々やファンに、どれほど大きな迷惑をかけてしまったか、いま考えても身がちぢんでしまいます。

ここでも母親が登場しています。この自叙伝には他の部分も含めて母親のことが何度も出てきます。デビューまもない頃の藤圭子が歌を歌う最も大きな原動力は母親の目を治すことにあったことが分かります。
 

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