藤圭子の暗黒エネルギー

このブログの最終的な目的は、藤圭子がなぜあのような悲劇的な最後を遂げなければならなかったのか。その理由を解明することです。

宇多田ヒカルが 「母がこのことを知ったら殺されるかもしれません」 とツイートした理由とは

2010年10月13日のシネマトゥデイは、宇多田ヒカルTwitterを始めたことを報じています。

同記事によれば、海外からのフォロワーからカラオケでの十八番を聞かれて次のようにツイートしています。なお、ツイートはすべて英語で行われています。

カラオケでよく歌うのは、ディズニーの歌や演歌(日本のブルース)、シャンソンですね。

宇多田ヒカルがカラオケで演歌を歌うとは意外な感じがしますが、私は聞きたいとはまったく思いません。

外国ではヒカルの家族があまり知られていないことに関して、次のようにツイートしています。

あまり知られていないでしょうけど、わたしの母は演歌歌手なんです。パフォーマーとして尊敬しますし、娘から見ても美しいです!

母の『面影平野』や美空ひばりの歌はよく歌います。でも、母がこのことを知ったら、殺されるかもしれませんね。

演歌はすごく特殊な形式で、歌詞は暗いものが多いのです。そして、母はそのことがわたしの歌や人生に影響するのではないかと不安に思っているので……

f:id:intron123:20181109230753j:plain

2010年12月 一時引退直前のステージ

母がこのことを知ったら殺されるかもしれない、とはオーバーな表現ですね。

2013年8月29日、J-CASTサイトに掲載された記事によれば、同年春頃、藤圭子が「救いのない歌詞を長年歌っていると何だか人生救いが無くなる」と言っていたと、照實氏がツイートしていたといいます。

藤圭子は、自分がデビューした当時から歌っていた ”演歌” を長く歌うことで、気分が沈むようになるということを言いたかったのでしょう。そしてその気分が沈む演歌を、娘のヒカルが歌うことを強く禁止していたのだと思います。

その表現が ”母がこのことを知ったら殺されるかもしれない” ということなのでしょう。それは分かる気がします。藤圭子が一旦怒ると、その怒りは半端ないですから。ええ。

そもそも、藤圭子は阿部家一家の生活を支えるために、仕事で否応なく好きでもない ”演歌を歌わされて” いたわけで、藤圭子にとって演歌は、否定してしまいたい音楽だったのでしょう。ですが、演歌を歌うことで大物歌手としてのアイデンティティを得ることができたこともまた否定できない事実であり、そこには当然葛藤もあったと思います。

デビュー当初は大人気を博しますが、それは1年しか持ちませんでした。不本意に終わった自らの歌手人生を娘に託してやり直そうと考えたのでしょう。

娘のヒカルには演歌ではなく、藤圭子が好んだロックで米国デビューさせようとしています。結果としてロックではなくR&Bを歌い、ロケーションも初めは日本国内でしたが。

宇多田ヒカルが天才歌手として皆から認められ、大スターになることは、藤圭子の十年来の夢でしたから、その夢が叶うことが自らの歌手活動を ”封印” せざるを得なくなることになってしまうとは、藤圭子にとってはまったく想定外のことだったのだと思います。

藤圭子とカラオケを楽しんだ "キャッシー" は 37年前のヨーロッパ旅行も一緒

2013年10月9日に、スポニチアネックスは次の記事を配信しました。


藤圭子さんお別れ会 兄の藤三郎氏も出席

8月に他界した歌手の藤圭子さん(享年62)のお別れ会「さよならの唄―また逢う日まで―」が8日夜、都内のホテルで行われた。

関係者ら約50人が集まり、実兄で歌手の藤三郎氏(63)も姿を見せた。デビュー当時からの友人キャスリン・コネリーさんは「3年前に一緒にカラオケに行ったら、セリーヌ・ディオンをこぶし入りで歌っていた。本当にうまかった」としのんだ。

藤圭子が晩年になっても洋楽を好んでいたことが分かります。セリーヌ・ディオンを、藤圭子がこぶし(モドキ)入りでどう歌ったのか、興味深いです。

この記事で、藤圭子とカラオケを楽しんだキャスリン・コネリーさんは、大下英治著「悲しき歌姫」で、1972年頃から藤圭子に英語を教えていたとされる ”キャッシー” という人です。

2010年に藤圭子がキャスリン・コネリーさんと再会したのは、藤圭子スポニチの圭子番記者である阿部公輔氏に、”キャッシー” に会いたいので捜して欲しいと頼んだからといいます。今現在はそのソースが提示できません。

2006年に藤圭子が、4900万円没収騒動でマスコミに登場してから4年後となる2010年に、藤圭子は再び複数のマスコミにその動静を知られています。藤圭子はその前年、2009年に米当局に没収されていた4900万円を返還されていました。

藤圭子宇多田ヒカルと同じ事務所の副社長でしたが、大下英治著「悲しき歌姫」によれば、2005年末に副社長を退任しています。それ以降、藤圭子には定期的な収入はほぼなかったと思われます。収入があるとすれば、それは藤圭子のCD売り上げによる印税収入だけでしょうが、それは微々たる金額だったでしょう。

週刊文春 2013年9月5日号に ”ベテラン芸能記者” の話として、2007年に照實氏との最後の離婚で、宇多田ヒカルの利権(と親権)を照實氏が手にし、藤圭子はまとまったお金だけを受け取ったとされています。しかし、週刊ポスト2013年9月6日号に掲載された藤圭子の知人の話によれば、最近になって藤圭子から “今はもう2000万円くらいしか持っていない” と聞かされたといいます。

ギャンブル依存は基本的には治ることはありませんから、2009年当時にはおそらく金銭的に逼迫していたであろう藤圭子は、米当局からの4900万円の返還で一息ついたものと思われます。そのことが影響した可能性がありますが、藤圭子は2010年になって活動的になります。藤圭子が、キャスリン・コネリーさんとカラオケを楽しんだというエピソードも、その表れでしょう。

"キャッシー" こと、キャスリン・コネリーさんは、藤圭子が1973年にヨーロッパを旅行した際に一緒についていっています。「流星ひとつ」には、沢木耕太郎がフランスの空港で、藤圭子とキャスリン・コネリーさんに出会った様子が次のように語られています。


… ぼんやり通路の方を眺めてたら、日本人らしい女の子が来たんですね。この野郎、こっちへ来るな、こっちへ来るな、と思ってるのに、どんどんこっちへ近づいてくる。で、何気なく、顔を見たわけですよ。すると、それが、驚くほど幼い、でも整った、人形のような顔をした少女だった。

 (中略)

その子の後にね、もうひとり同じ年格好の少女がいて、この子も色が白くて美しい顔立ちなんだ。さらにその後に中年の男性がいて …


この話での ”もうひとり同じ年格好の少女” という人物が "キャッシー" こと、キャスリン・コネリーさんです。

1973年7月発行の週刊明星の記事を抜粋して引用します。なお、ここでは当時の記述を尊重し、そのまま掲載しています。


藤圭子と混血キャシーのヘンな関係  ”演歌の星” が朝から晩まで英語ペラペラ…

6歳年下の混血娘キャシー(15歳)とヨーロッパ旅行を敢行しようと張り切っている藤圭子だが、果たして彼女のヘンな英語が通じるのか? 珍道中の無事を祈りつつ、旅立ちの2人を偵察してみると…

キャシーの猛特訓でものすごい上達ぶり…

「ハウ・アーユー・おお、ユールック・ベリベリ・ファインね。サンキュー・アイム・クワイトウェル、じゃバイバイ」

このところ会う人ごとに奇妙キテレツな?英語をかませ、相手をビックリさせているのが藤圭子。日本情緒たっぷり、”演歌の星” といわれる圭子タンが英語をあやつるとは、なんとも奇妙なはなしだが、それにはふかーいワケがあった。

7月25日から10日間の予定でヨーロッパ旅行をする彼女、それに備えて英会話の猛勉強中だが、覚えた英語の復習を兼ねて、当たるを幸い実地練習をしているというわけなのだ。

f:id:intron123:20181102122414j:plain

1973年当時の藤圭子とキャシー(左)

… それにしても妹同然のキャシーと、おんな2人、なぜヨーロッパくんだりまで行くのだろう。日ごろ無口で控えめな彼女からは。とうてい想像もできない ”冒険旅行” と思えてならない。なぜ? と聞いたとたんに彼女の長いまつげがしばたたいた。

「だれがみても私はいまスランプ状態、私自身もよくわかっています。プライベートなことでいろいろなことが起き、それが迷いのもとになっていたとようやく気がついたんです。この際、仕事の上でもすっぱりと割り切り、演歌一すじでやり直そうと思ったんです。今度の旅行は、そうした決意を私自身でたしかめてみたかった。それにはできるだけ日本から離れたところのほうがいいと思って、ヨーロッパを選びました」

 (中略)

ーー こんなナイス・イングリッシュをいったい誰が教えたのか。もちろん同行のキャシーだ。彼女は日米の混血児だが、以前からモーレツな圭子タン・ファン。それが縁になって2人は急接近。1年くらい前からは成城にあるキャシーの家に圭子タンが遊びに行くなどして、いっそう親密の度合いは深まっていた。とかく孤独になりがちな彼女が、今回のヨーロッパ行きを思い立ったとたん「キャシーと2人だけで行くわ」といい出したのも、ふたりが無二の親友であったため。いや、それ以外にもう一つ、日本語と英語を自由自在に使い分けるキャシーの存在は、楽しみにしている現地でのショッピングで、きっと役立つにちがいないとの計算が多少あったのかもーー


この記事では、藤圭子が英語を学び始めたことを面白おかしく報じています。英語を学ぶようになった理由を、ヨーロッパ旅行のためとしていますが、本当の理由が米国でロックを歌うためであることは、以前の記事で指摘した通りです。

演歌を歌っていた藤圭子が、まさか米国でロックを歌いたいと思っていたとは、藤圭子とごく近しい少数の人しか知らなかったことでしょう。

ロック歌手に転向したカルメン・マキ と 米国でロックを歌うために英語を勉強した藤圭子

似ているようで違う、違っているようで似ている。カルメン・マキと藤圭子は、私にとってそんな関係です。

カルメン・マキは藤圭子がデビューする7ヶ月前、17歳のときに「時には母のない子のように」でデビューしています。寺山修司の秀悦な歌詞と、カルメン・マキのエキゾチックな容貌と、その突き放したような歌唱スタイルが人々の琴線に触れ、レコード売り上げが100万枚を超える大ヒットとなり、カルメン・マキはこの曲で紅白出場を果たしています。

藤圭子の歌唱スタイルは、カルメン・マキの歌唱スタイルとよく似ています。直立不動でまったく媚びることなく、無表情に淡々と歌う。これは新人歌手として世に出ることになるカルメン・マキが、並み居る他の歌手と伍していくにはどうしたらよいか、を考えた末に編み出した歌唱スタイルだといいます。

私はカルメン・マキの初期の曲では「戦争は知らない」が一番好きなのですが、これも寺山修司の作詞で、彼の卓越した詞の才能が遺憾なく発揮された名作だと思います。この曲はザ・フォーク・クルセダーズ加藤登紀子なども歌っていますが、”当時の” カルメン・マキの歌唱が一番魅力的です。

カルメン・マキも藤圭子も、ともにデビューしてから間もなくしてロックを好むようになります。大下英治著「悲しき歌姫」では、1972年頃に藤圭子がロックを聴くようになった様子が書かれています。

藤圭子の人気もそろそろ落ち着いてきたころ、藤圭子はロックを聴きだした。

もともと、ロックが好きだった藤圭子は、ロックを歌うことが夢のようだった。英語の勉強もはじめ、少しでも時間があれば赤坂のディスコ「赤坂ビブロス」や六本木のディスコに通い、プライベートの時間をロックで満たしていた。

「気をつけろよ」

藤のマネージャー成田忠幸はそういって注意していたが、ときには、髪の長い男と二人で歩いているところを見つけたりすることもあった。藤圭子は、「大丈夫、大丈夫」というのだが、成田は、「何が大丈夫か」と気が気ではなかった。

また、遊びにいった先で知り合った、波長の合うキャッシーという十六歳のハーフの女の子と友だちになり、英語力をアップさせるために英会話を楽しむようにもなっていた。

しかし、クレバーな藤圭子は、そのことを意思として表すことはせず、ロックは自分の中で好きなもの、演歌は仕事で歌うものと区別していたところがあった。

それでも、いつも身近にいる成田には、本心を打ち明けていた。

「いつか、アメリカに行きたい」

成田は感じていた。〈純ちゃんは、アメリカに住みたいんだろうな……。そこで、ロックを歌いたいんだろうな……〉 

藤圭子が、演歌をそれほど好きではないことは知っていた。

藤圭子が英語を学び始めた理由が、米国でロックを歌うためであることは明らかです。

ロックの魅力を知った藤圭子が古くさい演歌を好んでいたはずがありません。みずからのパワーが発揮できる、朗々と歌い上げる「北国流れ旅」など、ロックと合い通じる部分のあるごく一部の演歌は好みだったでしょうが。

藤圭子には日本でロックを歌うという考えはありませんでした。それは ”怨歌の歌い手” というイメージが、日本人の間にあまりにも強固に張り付いてしまっていたと、藤圭子が考えたからでしょう。日本でのロックへの転向をあきらめ、米国でロックを歌うことに決めたのだと思います。

1990年代前半と思われる次の動画で、藤圭子は楽しくてしかたがないといった感じでロックを歌っています。見ているこちらまで楽しくなってしまいます。


藤圭子 ビートルズ・ロックンロール・メドレー 共演:尾藤イサオ・白井貴子

1979年に藤圭子が引退を決めたことの大きな理由のひとつに、米国でロックを歌うためということがあったものと思われます。

藤圭子は、1992年に米国で全曲がロック調の曲で占められているアルバム「STAR」を発表する予定でしたが、おそらく資金が枯渇したためと思われますが、日本に帰国して翌年に国内で日本語に歌詞を変えてU3名義で発表しています。


カルメン・マキはハーフで母子家庭で育っています。高校を中退してブラブラしていた時に天井桟敷の舞台を見て強い感銘を受け、すぐに入団を決めたといいます。

舞台で演劇をしていたところをCBSソニーの関係者に見出され、歌手としてのデビューが決まります。レコード売り上げでの貢献のご褒美としてCBSソニーの社長から、レコードプレーヤーとLPレコードをプレゼントされたのですが、CBSソニーが洋楽を得意としていたところから、レコードはすべて洋楽でした。

そこで聞いたジミ・ヘンドリックスジャニス・ジョプリンボブ・ディランなどを聴いて、ひっくり返ったり飛び上がったりするほどの衝撃を受け、”音楽ってこういうものなんだ!” と思ったといいます。カルメン・マキ にとって、それまで自分が歌っていたのは本当の音楽ではなかったということでしょう。

ロックの魅力に目覚めたカルメン・マキは、みずからロックバンドを結成します。それが日本最高のロックバンド「カルメン・マキ & OZ」です。1975年に発表したファーストアルバム『カルメン・マキ&OZ』は、当時のロックアルバムとしては異例の10万枚を売り上げ、大ヒットとなりました。

当時、大学生で寮に入っていた私はある夏の夜、開けていた窓越しに隣の棟から大音量で聞こえてきた「私は風」での、カルメン・マキの激越な歌唱に度肝を抜かれたものです。


カルメン・マキ&OZ_私は風

このアルバムでカルメン・マキは完全なイメージチェンジに成功し、日本を代表するロック歌手となりました。アルバム『カルメン・マキ&OZ』は日本ロック史上に輝く金字塔を打ち立てたのです。その曲はキング・クリムゾンなど、プログレッシブ・ロックの影響を色濃く受けています。

仮に藤圭子が「私は風」を歌ったら、カルメン・マキに引けを取らない歌唱ができるでしょうか。おそらく無理でしょうね。歌唱における爆発力はカルメン・マキが一枚上のようです。

混乱を極める芸名 ”藤圭子” 名付けの由来

藤圭子” という芸名を名付けた由来については、比較的よく知られていることと思います。名付け親たる石坂まさをは、1999年刊行の自著「きずな」で、次のように芸名の由来について説明しています。

私は『花菱エコーズ』を売り出すときに世話になった『日本音楽放送』の工藤宏社長に相談した。相談といえば体裁はいいが、要は事務所設立の資金を出してもらうためである。

工藤社長は、私と純子を前にして二百八十万円の大金を出してくれた。私は、その場で純子の芸名を考えた。工藤社長の妹は”桂子”といった。工藤の”藤”と妹の”桂子”から”圭”の一字をもらい、”藤圭子”とした。

このときから、阿部純子は「藤圭子」となった。

これが ”藤圭子” という芸名の由来ということになっています。「きずな」の記述によれば、”藤圭子” という芸名を決めた時期は、その前の記述からデビューする少し前、1969年の初夏の頃であることが分かります。

藤圭子デビュー当時、スポーツニッポンの音楽担当記者だった小西良太郎氏は、藤圭子の取材に関して専任担当となる”圭子番記者”になりました。小西良太郎氏は、2000年に後任に譲るまで、30年以上に渡って”圭子番記者”でした。

2001年に刊行された自著「女たちの流行歌(はやりうた)」で、小西良太郎氏は初めて藤圭子と会ったときの模様を次のように書いています。少し長くなりますが引用します。

1968年のことだから、話は三十年以上さかのぼる。スポニチの文化部デスクだった僕は、そのころ三軒茶屋に住んでいた。お化け屋敷みたいな古い西洋館の二階を借りて、寝泊まりしていた友人が十余人。音楽プロデューサーや作詞家、作曲家、歌手のタマゴ、コピーライター、パントマイム青年に坊さんの見習いなどいろいろだ。

深夜、自宅に戻るといつものように、安手の梁山泊ふう酒盛りが盛り上がっていて、その傍らに客の作詞家石坂まさをが居た。珍しく女連れで、やがて彼は舌なめずりするような口調で話しはじめる。

面白いキャラクターの新人歌手を見つけた。この子で勝負する作品もできた。こんな時代だから、こういう路線がいいと思う。あんたは面白がり屋だから、きっと乗るだろう。僕の頭の中には、歌謡曲が何千曲も入っている。しかし、その中で名作と思えるものは、いくつもない。僕が影響を受けた作詞家は某々で、その代表作はこれこれ…。僕は歌謡曲にかけた夢を、今度の新人で果たそうと思う…。

訥弁の能弁というやつである。話はしばしば飛躍し、例え話が多くはさまり、どの辺へ着地するのか判らなくなる。そういう石坂に僕は慣れていたから、彼の話がやがて、ジグソーパズルみたいに一枚の絵になるのを、辛抱強く待った。

『演歌の星を背負った宿命の少女』

キャッチフレーズまでもう出来ていて、石坂は、それまでずっとほったらかしだった連れを、おもむろに紹介する。演歌の主人公みたいに細い肩と薄い胸の小柄な少女は、能面みたいな無表情を、微笑で少し崩した。

「本名阿部純子、この純ちゃんがね、来年、藤圭子になるの!」

石坂がやっと、その夜の結論を言ったーー。

 f:id:intron123:20181028195834j:plain

小西良太郎氏によれば、石坂まさをが ”藤圭子” という芸名を決めたのは、石坂まさをが書いているようなデビュー少し前ではなく、その前年、1968年ということになります。

藤圭子は自身の芸名の由来について「流星ひとつ」で次のように話しています。

「それはね、やっぱり日本一の山だから、名字は、ふじ、がいいって沢ノ井さんが言うんで、藤となったの。名前は、けいこ、というのが語呂がいいって。日本には沢山のけいこがいるけど、それは響きがよくて、呼びやすいからだって、それで圭子ということになったんだ」

かどのブログー藤圭子さんを決して忘れないーによれば、1971年刊行の藤圭子著「演歌の星 藤圭子物語」で、藤圭子は自身の芸名の由来について次のように書いています。

私の芸名の理由は、かいつまんでお話ししますと、藤プロの社長さんのお名前の一字「藤」をとり「圭子」はかつての沢の井先生のまぼろしの初恋の人の名まえを頂戴したものです。

藤圭子が、自身の芸名の由来という重要な事柄について、間違って覚えているはずがない、と普通は思います。ですが、藤圭子の場合は、意識して嘘をついているのか、無意識のうちに過去の記憶を作り変えてしまっているのか、そこの判定が困難です。

1979年当時、藤圭子石坂まさをとの仲は修復不可能なほど険悪なものとなっていました。そうしたことが背景にあって、「流星ひとつ」で藤圭子は、石坂まさをが名付けた自らの芸名の由来について事実と異なることを話している、と了解する以外にありません。

石坂まさをは、”藤圭子” の ”藤” の理由として、1969年のデビューにあたり、事務所設立で工藤氏から世話になったので、”工藤” の ”藤” をもらったと話していますが、その話と小西良太郎氏が1968年に石坂まさをから聞いた話とは食い違っています。

RCAディレクターの榎本襄氏によれば、1969年1月頃に藤圭子に初めて会ったとき、すでに藤圭子DENONからデビューすることが決まっていました。このことから小西良太郎氏が藤圭子に初めて会ったのは、1968年の終わり頃と分かります。石坂まさをが「来年、藤圭子になるの!」と言っているからです。

榎本襄氏によれば、石坂まさを藤純子のファンだったといいます。石坂まさをが「命預けます」を書いたのも、榎本襄氏によれば、石坂まさを藤純子のファンで、任侠映画で活躍していた藤純子にように、藤圭子に任侠ものを歌わせたかったからということになります。

阿部純子の名字を ”藤” にすれば ”藤純子” になります。芸名の名字を ”藤” と名付けたのは、石坂まさを藤純子のファンだったから、ということが真相のようです。ですがそうしたことを公にすることは、芸能人同士の関係がありますから、事務所設立でお世話になった工藤氏からという、別の理由が設けられたのでしょう。

名前の ”圭子” に関しては、藤圭子が「演歌の星 藤圭子物語」で書いていることが本当のようです。

石坂まさをが ”圭子” の由来について、藤圭子が「演歌の星 藤圭子物語」で書いていることと、1999年の自著とで異なることを書いているのは、自らのごく個人的なエピソードから名付けたということを伏せたかったためと思われます。その当時の時点で、藤圭子から激しく憎まれるようになったことを知ったからなのかもしれません。

藤圭子がヒカルデビュー後に歌手活動を「封印」した理由とは

藤圭子がなくなって以降、YouTubeにUpされた動画に ”もっと生きて歌ってほしかった” といった趣旨のコメントがしばしばありますが、そうコメントする人は当時の藤圭子の置かれた状況を理解できていないです。藤圭子宇多田ヒカルがデビューして以降、1999年から自らの歌手活動を「封印」しています。

亡くなるまで、約15年間に渡って歌手としてステージで歌ったことは1回を除いてそれ以外はありませんし。藤圭子は1999年の時点で事実上、歌手を廃業しています。藤圭子が歌手活動を「封印」した理由は、藤圭子に根深い「暴力団依存」体質があったからです。

小さいときから暴力団と関わっていた藤圭子

両親が浪曲師で各地の興行でヤクザと親密な関係を持つ必要がありました。藤圭子は幼い頃から両親のヤクザとの付き合いを見て育っています。藤圭子にとってヤクザ・暴力団は仕事を円滑に進めてくれる良きパートナーだったといえるでしょう。

これは当時活躍した演歌歌手全般に当てはまることではありますが、藤圭子は大物演歌歌手であったため、付き合いのある暴力団も全国規模で大きな勢力を持っていた暴力団だったと思われます。

こうした芸能界と暴力団との結びつきは、1980年代後半になると社会的に問題視されるようになってきました。しかし、藤圭子自身はそういった風潮には無関心のようで、宇多田ヒカルがデビューする直前に出演したパーティで、広域指定暴力団の組長とツーショット写真に収まっています(こちらの記事)。

こうした藤圭子暴力団とのつながりは、全国をドサ周りした藤圭子の事務所の社長をしていた照實氏もよく知っていたことでしょう。照實氏自身が暴力団幹部と交渉した経験がたくさんあるはずです。そうした中で暴力団から様々な便宜を図ってもらったことでしょう。もちろん、それに対する金銭的な見返りは支払っていたでしょうが。

藤圭子暴力団依存体質がヒカルのマイナスになる

宇多田ヒカルがデビューした時に照實氏は、マスコミが藤圭子の名を出すことを極端に抑え込もうとしていますが、その理由をR&Bのヒカルに「演歌の藤圭子」のイメージが重なることを嫌ったため、と説明するメディアがありますが、それは違うと思います。

そんなことはたいして理由になりません。照實氏がヒカルと藤圭子の関係を隠したがったのは、藤圭子暴力団と親密な関係にあったからです。

もしも藤圭子がヒカルデビュー後も歌手活動を続けていたらどうでしょう。暴力団が関係しないテレビなどの出演だけに限ったとしても、歌手活動を続けている限り、昔世話になった有力暴力団幹部から、うちの方にも出演してくれと興行を要請されれば、断ることはできなくなります。

事実、日刊サイゾー「暴力団が封印!故・藤圭子が娘・ヒカルの『Automatic』を熱唱した夜」として、2000年に昔世話になった有力暴力団組長から請われて断りきれずに、藤圭子が地方で公演を行なったことが報じられています。この公演の模様が週刊誌に掲載されそうになり、直前になって発売を止めるよう圧力がかかり、記事内容が書き換えられています。

この公演の模様がそのまま記事となって世間に広まったとしたら、さらに多くの暴力団関係者から出演要請が来たことでしょう。すでに芸能人が暴力団と関係を持つことが許されない時代となっていたにもかかわらずです。

宇多田ヒカルの活躍を快く思っていないライバル勢力にとって、ヒカルの母・藤圭子暴力団との親密な関係を維持していることは、ヒカルのイメージダウンにつながる格好の攻撃材料です。

おそらく藤圭子は照實氏から、歌手活動を続けているとヒカルにとってマイナスになると説得されたのだと思います。

ヒカルを守るため自ら歌手活動を「封印」した藤圭子

スポーツニッポン芸能記者である阿部公輔氏は、2000年に小西良太郎氏の後を継いで、藤圭子の専任取材記者である ”圭子番” 記者となります。阿部公輔氏は、初対面の藤圭子から「私を藤圭子とは絶対に呼ばないでちょうだい!」ときつく言い渡されています。

「記者の身からすれば『圭子さん』と呼ぶしかないが、それを許さない。しかたなく本名の『純子さん』と呼ぶ。あれだけ知名度があっても、芸名への愛着はみじんも感じられなかった」とも述べています。

また、2006年に藤圭子テレビ朝日のインタビューに「私はもう藤圭子でもなんでもない。封印した」と本名の "純子" で取材に応じています。

藤圭子はヒカルを守るために自ら歌手活動を「封印」したのです。

ジャズアレンジの「圭子の夢は夜ひらく」にみる八代亜紀との関わり

「圭子の夢は夜ひらく」の動画はYouTubeに数多くUpされていますが、その中に1990年代後期と思われる動画で、ジャズのアレンジで歌っている動画あります。その動画は2つあるのですが、1つはあまりパッとしない動画です。衣装が似合っていないし、ヘアスタイルもよくない。歌いまわしが元のままでジャズらしくない。何より本人のノリがよくないです。

もう1つの動画では、衣装がバッチリ決まっていて、ヘアスタイルもスッキリまとまっています。歌いまわしがジャズのアレンジとよくマッチしていて、何より本人のノリがいいです。こちらの動画のほうが断然いいパフォーマンスになっています。

数ある「圭子の夢は夜ひらく」の動画の中で、私はこの動画が一番好きなのですが、2年半あまりでの視聴回数は3,000回ほどしかありません。一方で、私が魅力的でない歌唱と感じる動画は4年近くで80,000回を超えています。

まあ私が好んだ動画は見つけにくいのは確かです。熱心に探そうという気がないと見つけられないでしょうね。そういう熱心なファンだけが見られるようにしているのでしょう、純ぺいさんは。


♪♪ 夢は夜・・・純ぺい

藤圭子は元々ロックが好きで洋楽全般を好んでいました。1995年の動画で、安室奈美恵を交えた対談番組がありますが、その中で藤圭子は、ラップとかヒッピホップとかハウスとか、当時米国で流行していた新しい音楽がすごく好きだと話しています。ですが、ジャズへの関心をうかがわせることは話していません。

ジャズアレンジの「圭子の夢は夜ひらく」がどうして生まれたかを考える上で、忘れてならないのは藤圭子八代亜紀との関係です。

八代亜紀は12歳のときに父が買ってきてくれた、ジャズ歌手ジュリー・ロンドンのアルバムを聞いて衝撃を受け、ジュリー・ロンドンと同じ自身のハスキーな声を活かせると思い、ジャズの歌唱練習を始めたといいます。

八代亜紀は1998年に全曲がジャズのスタンダードナンバーとジャズにアレンジした「雨の慕情」「なみだ恋」「舟唄」など、15曲を収録した本格的なジャズアルバム「八代亜紀と素敵な紳士の音楽会 LIVE IN QUEST」を発売しています。この録音の日付は1997年9月26日となっています。

f:id:intron123:20181013152716j:plain

この時期が、ジャズアレンジの「圭子の夢は夜ひらく」の動画が放送された時期とそれほど離れていないように思います。八代亜紀藤圭子の歌手仲間で親しく付き合いのあった友人でした。歌手デビューは八代亜紀が2年遅いですが、年が1歳上で、藤圭子八代亜紀を何かと頼りにしています。

八代亜紀は1982年から1985年までセンチュリーレコードに在籍していました。藤圭子はU3名義でアルバム「STAR」を発売するにあたり、1993年に同じセンチュリーレコードに所属しています。レコード会社選びで、八代亜紀から何らかの影響を受けた可能性があります。

八代亜紀がジャズアレンジで「雨の慕情」などを歌っていることを知った藤圭子が、「圭子の夢は夜ひらく」も同じようにジャズアレンジで歌いたいと思ったとみるのが自然です。

藤圭子は1998年11月13日に、かつて交友のあった俳優からパーティ出演を頼まれて「圭子の夢は夜ひらく」などを歌っていますが、出席した人は「ポップ調にアレンジして踊りながら歌って」いたと話しています(こちらの記事)。

踊りながら歌っていたというのですから、上の動画にあるようにジャズにアレンジした「圭子の夢は夜ひらく」なのでしょう。こうしたローカルな舞台でもジャズアレンジで歌っていたことから、藤圭子が本当にこのアレンジを好んでいたことが分かります。

それはそうでしょう。懐メロではなく、その時代にあったアレンジで、「圭子の夢は夜ひらく」に新しい価値を与えたいと、藤圭子が考えたとしても不思議ではありません。

藤圭子八代亜紀との関係は、あくまでも仕事の上での親しい友人という関係であったようです。そこでとどまっていたので、宇多田ヒカルがデビューする直前まで良好な関係を保っていられたのでしょう。

1998年に本格的なジャズアルバムを発売した八代亜紀ですが、その後はジャズとは離れていて、再びジャズを歌い出すのは2012年になってからです。ジャズアルバム「夜のアルバム」は世界75か国で同時配信され、歌手活動42年目にして世界デビューを飾っています。

同アルバムはオリコン・アルバムチャートの週間チャートで最高20位となりヒットしています。現在ではジャズライブも積極的に行なっています。

次の動画は2013年3月に行われたニューヨークの有名ジャズクラブ「バードランド」でのライブの模様です。


八代亜紀 - ライヴ・イン・ニューヨーク (ダイジェスト)

復帰は人間としてないと宣言していたが  引退8ヶ月後には早くも復帰を決めていた藤圭子

藤圭子は1979年12月に一度引退していますが、大下英治著「悲しき歌姫」によれば、その8ヶ月後には早くも復帰することを決めています。実際に復帰したのは1981年7月ですが、その約1年前には復帰することが決まっていました。「二度と復帰することはないと思います。人間として」とまで言って引退したにしては、それをすぐにひっくり返す気の変わりようは、第三者からすれば引退の判断も含めて軽率のそしりを免れないでしょう。

復帰の受け皿となったのは藤圭子の大ファンで実業家の藤原正郷氏でした。藤原氏藤圭子が引退してからその後を追い復帰を働きかけています。当初ハワイに渡った藤圭子は1980年春にはカリフォルニアに滞在していましたが、8月にニューヨークへ向かっています。

この写真はハワイ大学の聴講生になっていたときのものです。

f:id:intron123:20181006133038j:plain

週刊平凡 1980年4月3日号から引用します。


「徹夜で勉強するのよ」
歌手廃業から3ヶ月、ハワイ大学の聴講生になりきった藤圭子

昨年の12月に引退した藤圭子が、いま、ハワイで独身女性の青春を謳歌している。
藤は、「今日は宿題がいっぱいで、徹夜になりそうなの」とハワイ大学の聴講生になりきり、若いクラスメートと英語の勉強に真剣にとりくむ毎日だ。
そしてスーパーに買い物に行き自炊の生活。鼻うたを口ずさみながら、お弁当のおにぎり作りはうれしい朝の日課
「ハワイは洗濯が楽で助かるわ。Tシャツ1枚で過ごせるんだから」と、言葉を弾ませた。
引退の時、多くの芸能記者は「2年もたったら戻ってくるさ」と言っていた。が、現在の藤は「絶対にありえない。今の生活がこんなに楽しいし、勉強の必要性を、ますます感じているしね」と、芸能界復帰に少しの未練も感じさせない返事だ。
藤圭子から本名の竹山純子に戻って「将来は語学を生かした仕事がしたい」と、28歳の女性の一大変身。


この記事で目を引くのは当時の藤圭子の本名が「竹山純子」であるということです。藤圭子の両親は1973年に離婚していますが、そのときに藤圭子は母親の竹山澄子さんの籍に入ったのでしょう。「流星ひとつ」のあとがきに掲載されている藤圭子からの手紙にも「竹山純子」と書かれています。

2006年春に藤圭子は照實氏と最後の離婚をしていますが、その時、もとの竹山家の戸籍には戻らず、新しい戸籍を作って旧姓の宇多田を継続して名乗っています。藤圭子が亡くなった時に宇多田ヒカルは、籍は宇多田家のままだったと述べていますが、法律上、そうすることは不可能です。宇多田姓を継続して名乗っていたことと戸籍とを混同していたのでしょう。

通常、離婚すると戸籍筆頭者でない場合は旧姓を名乗ることになっていますが、藤圭子の場合には竹山姓を名乗る選択肢はあり得ませんでした。何しろ「この世で一番憎んでいるのは母親」ですから。ずっと以前に藤圭子は母親とは絶縁しています。離婚しても旧姓を継続して名乗るには新戸籍を作らなければなりません。

事実、2006年の時点で「阿部家のお墓には絶対に入りたくない」と話していますから、籍が宇多田家の籍ではなく、新戸籍となっているのは明らかです。阿部家の墓に入りたくないのは幼少の頃に父親から虐待されていたためです。

藤圭子が亡くなった時、娘の宇多田ヒカル代理人を務めた照實氏が、藤圭子の兄の藤三郎氏が藤圭子と対面することを断った背景には、藤圭子自身の意向が働いていた可能性が極めて高いです。

藤三郎氏は阿部家の人間ですから、藤三郎氏が自身の死後に関わることで、藤圭子は阿部家の墓に入れられることになることを強く恐れていたと思われます。

藤圭子が亡くなった時、藤三郎氏は週刊文春の取材に「阿部家の願いがかなうなら2010年に亡くなった母・竹山澄子さんと同じ墓に入れたい」と述べています。

藤圭子は2010年に竹山澄子さんと和解したかに見えましたが、その直後に再び絶縁しています。藤圭子が生前に、藤三郎氏の意向とは真逆の意思を持っていたであろうことがうかがえます。

生前から藤圭子は、自分が死んだら阿部家の人間が一切関わることのないようにしてほしいと、照實氏に伝えていたはずです。

藤圭子が上の引退翌年の記事にあるように、明るく快活な様子なのは、もうすぐ沢木耕太郎と一緒に暮らせると思っていたからでしょう。当時ニューヨークで暮らしていた写真評論家の大竹昭子は、1995年のエッセイ集『旅ではなぜかよく眠り』で、藤圭子がアパート探しで訪れて来た時をこう描写しています。


… 今度は日本語の本を開いた。日本の著名な作家が書いたノンフィクションだった。この作家のことは知らなかったけれど、本人にあったらとてもステキな人で、たちまち好きになってしまった。もうすぐニューヨークに来るので会うことになっている。


しかし、妻のいる沢木耕太郎は結局ニューヨークに来ることはなく、藤圭子はまたも裏切られます。藤圭子はいつも誰かの愛情を必要とし、いつも誰かに愛されたいと願うのですが、いつも裏切られることになります。

不倫関係だった小林繁に裏切られ、これも不倫関係の沢木耕太郎に裏切られ、照實氏には不倫で何回も裏切られ、母親にはギャラを着服されて裏切られ、石坂まさをに裏切られ、娘の宇多田ヒカルには事務所の副社長を辞めてほしいと裏切られ、そのたびに藤圭子は精神のバランスを大きく崩しています。

藤圭子が裏切られたと思っていても、客観的に見ればそれが一方的な思い込みだったという場合もある点は、指摘しておきたいと思います。

照實氏は藤圭子が自殺した時、感情の変化が激しくなるようになったのは1988年だったと述べていますが、実際にはそれよりもっとずっと前からしばしば精神的に大きく不安定になった時期があります。ただし、それが長く続くことはありませんでしたが。

藤圭子の場合、強い精神的ストレスがかかると感情がひどく不安定になってしまいます。しかし、それは基本的にはごく親しい人間関係、親や配偶者、子供などとの間でしか表面化せず、仕事など公の場面ではそういった素振りを見せることはありませんでした。そのことが、外部の人が藤圭子と家族との関係を誤解してしまうことにつながっている面が確かにあります。

引退8ヶ月後といえば、1980年8月頃にあたります。藤圭子沢木耕太郎に裏切られたと知ったのはその頃でしょう。そうでなければ引退早々に復帰を決める理由がなさそうです。

沢木耕太郎と一緒に暮らせると思っていたのに、それが叶わないと知った時、強烈な見捨てられ感、孤独感に見舞われ、藤圭子はみずからの大物演歌歌手という職業的アイデンティティを、再び頼りとせずにはいられなかったのでしょう。そうしなければ精神的に持ちこたえられない状況だったのだと思います。

藤圭子大竹昭子に会って間もなく、作家の田家正子とアパートの部屋代をワリカンにして一緒にアパートに住みますが、田家正子が友人を連れて騒ぐようになり、その友人の中に照實氏がいました。

照實氏は藤圭子と最初に会った時、感情が不安定で類まれな気まぐれな人と、藤圭子を形容していますが、当時の藤圭子の側の事情からすれば当然といえます。

1980年8月頃に復帰を決めた藤圭子でしたが、実際の復帰は1981年7月になりました。復帰するまでに1年近くかかったのは、藤原氏藤圭子のテレビ定時番組出演を取り付けたりして、復帰した際にすぐに芸能活動ができるよう、準備万端整えるまでに時間が必要だったからです。