喉の手術で藤圭子の声はどのように変わったか

藤圭子は1974年5月に喉を手術しています。藤圭子は肥厚性声帯炎という歌手の職業病とでもいう疾患を患っていました。歌い続けると喉が炎症を起こし、声がかすれて歌えなくなってしまうのです。その原因とされた喉のポリープを切除する手術を受けたのですが、そのことで声質が変わってしまったといいます。

藤圭子は、自分の強みと考えていた声が失われてしまったことで悩むようになります。「流星ひとつ」から引用します。

「… あたしの歌っていうのは、喉に声が一度引っ掛かって、それからようやく出ていくとこに、ひとつのよさがあったと思うんだ。高音でも同じように引っ掛かりながら出ていってた。ところが、どこにも引っ掛からないで、スッと出ていっちゃう。前のあたしに比べると、キーンとした高音になってしまったんだよ」

「… 日劇でショーをやって、すぐまた営業をやったら、昔のようなかすれ声になったんだ。でもね、それはただ単に荒れたというだけのことだった。すぐ元に戻っちゃった。かすれ声になったといっても、高音の引っ張りなんかが、ぜんぜん違うんだよね …」

手術の前は喉に声が一度引っ掛かって、それから出ていったのが、手術の後ではそれがなくなったと言っています。また昔はかすれ声だったとも言っています。

では、実際に手術前と手術後とで声がどうなっているか比較してみましょう。それにはライブで同じ曲の音声を比較するのが一番確実です。ここでは1971年のライブと1977年のライブで歌った「新宿の女」を比較してみます。6年の隔たりがありますが、本来はあまり声に違いがでないはずです。


藤圭子 新宿の女 1971年


藤圭子 新宿の女 1977年

どうでしょうか。聞いてみて1971年ではかすれ気味の声のように聞こえますが、1977年ではきれいな声になって聞こえます。サビの部分で1971年は、藤圭子が ”喉に声が一度引っ掛かって” というように、かなり雑音が混じって聞こえます。1977年ではそれが全くなくなってきれいな声のままです。

曲によって違いが分かりにくいものもありますが、この「新宿の女」は違いがはっきりと分かります。少々オーバーにいえば別人が歌っているようにも聞こえます。

藤圭子の特徴的な声が、手術によって失われてしまったと藤圭子が言っているのは、この「新宿の女」で感じられる声質の違いを言っているようです。

一般にはこの声が変わってしまったことが、引退の大きな原因になったとされているようですが、それは一因ではありますがもっと重要な理由があると思います。

藤圭子が「流星ひとつ」で言っていますが、かつての「余韻」で歌っていくことが嫌になったことが、引退の主な理由のようです。

石坂まさをと藤圭子の奇妙な師弟関係

藤圭子は1968年の秋頃に石坂まさをと知り合い、住み込みでレッスンを受けるようになります。「流星ひとつ」で藤圭子は初めて石坂まさをと出会ったときの印象を、自分に似ていると話しています。石坂まさをの、世の中の辛酸をなめ尽くしたその雰囲気が自分と似ていると感じたのかもしれません。

石坂まさをと藤圭子は師弟関係を結んだことになりますが、1960年代後半の頃の師弟関係は今よりも厳しかったと思います。師匠によって違うと思いますが、日常の所作や歌のレッスンでまずいところがあると、鉄拳が飛んでくるといったことも珍しくなかったでしょう。それでも指導を受ける歌手はじっと耐え忍ぶことが当時では当たり前だったと思います。

ところが石坂まさをと藤圭子の師弟関係はまるで違っていました。藤圭子は耐え忍ぶどころがしばしば反抗したのです。ふたりの年齢差が10歳と近かったためということがあるかもしれませんが、それにしても普通の師弟関係からは程遠い関係にありました。

藤圭子がデビュー前のことです。「悲しき歌姫」から引用します。

龍二は、純子を連れて新宿の街を歩いていた。まだ、春には間があった。風がホコリを逆立てている。
「純ちゃん、手相観てもらおうか」
「あっ、おもしろい、おもしろい」
手相見は、純子の手相を見るなり、断言した。
「この子は、太陽線が伸びていませんね」
太陽線は、別名出世線ともいう。龍二は、なぜか急に腹立だしくなった。
「純ちゃん、駄目じゃないか。手相なんか、変えてしまえ! 血液型も変えろ!」
純子は、口をとがらせた。
「そんなあ……。無理ですよう」
龍二は、力の限り、純子の左頬をぶった。理不尽極まりないことはわかっていた。しかし、龍二に何かが憑いていた。そんな馬鹿なこと、と誰でも呆れるだろう、
 (中略)
案の定、純子は、キッと龍二の目を睨んだ。白目の部分が、凄惨な殺気を孕んでいた。
「なんだ、その眼は」
「フンッ……」
そういったきり、プイッと走り去ってしまった。

到底無理な要求ですが、藤圭子は師匠である石坂まさをに反抗しています。理由はどうあれ、師匠に弟子が反抗するなど、あり得ない時代の話です。

石坂まさをは、藤圭子がRCAからデビューすることになる直前にも理不尽な理由で藤圭子を殴っています。藤圭子と石坂まさを、RCAの榎本襄氏が3人で藤圭子の誕生会を行おうとした時、藤圭子と榎本襄氏の誕生日の月日が同じことが分かります。この時、藤圭子をコロムビア デノンからデビューさせることが半ば決まっていました。その時のことを「宇多田ヒカル母娘物語」から引用します。

そして、その宴の終わり頃、僕は純ちゃんに、さり気なく聞いてみた。
「純ちゃん、デノンとRCAとどちらからデビューしたいの」
と、すかさず純ちゃんは、
「デノンよ」
と答えた。
その時僕の右手が純ちゃんの左頬を張り倒していたのだ。これには僕のほうが驚いてしまった。自分の最低さに愛想が尽きたが、片方では真実の声だと思った。


石坂まさをが真実の声だと思ったのは、RCAの榎本襄氏が熱心に言ってくるので、RCAでデビューさせたいと考えたからでしょう。

藤圭子のデビュー後に石坂まさをが話しています。

彼女をぼくの手もとに引きとってからデビューするまで、ずいぶんとシゴいたもんだ。
ぼくはいささか女をバカにする傾向があるんで、曲のことで意見がぶつかったりすると、ついぶんなぐっちゃうんだな。彼女はワンワン泣きながら出て行っちゃう。でも、朝になってみるとちゃんと帰って寝ているんだな。オレも変わっているけど、彼女もそうとうなもんだよ。

藤圭子はその著書「藤圭子物語」で次のように書いています。

沢の井先生は気狂いになったみたいに私をシゴいていきました。
しょっちゅう意見の衝突があり、ケンカもしました。二人とも怒りっぽいので、すぐに売り言葉に買い言葉とでもいうのでしょう。「表へ出ろ」「出るわよ」というわけで、あわや取っ組み合いのケンカになることもしばしば。

これでは普通の師弟関係とは言えません。どうしてこういったことになるかといえば、初代林家三平師匠夫人の海老名香葉子さんが言うように、藤圭子は石坂まさをと対等な関係になりたいと考えていたからでしょう。

それだけ普通の師弟関係を超えて、藤圭子は石坂まさをと親密な関係にあったといえます。これが後年になって、藤圭子が「この世で一番憎んでいるのは母親と石坂まさを」というようになる伏線になったと思います。なぜなら、阿部純子育ての親は竹山澄子さんですが、藤圭子育ての親は石坂まさをだからです。

藤圭子はなぜヒカルと別居したのか

藤圭子は2002年にヒカルと別居状態となります。この記事では藤圭子がヒカルと別居することになった経緯を取り上げます。

ヒカルとの別居に至った原因

デビューしたヒカルの事務所の副社長だった藤圭子には年間1億円超のお金が入るようになりました。しばらくはギャンブルは目立ちませんでしたが、2002年になって世界中のカジノで5年で5億も使うほどギャンブルにのめり込むことになります。

この2002年当時、藤圭子と照實氏はヒカルのプロデュース方針をめぐってしばしば対立することがあったと見られます。このことと関連する出来事を2013年8月29日の芸能ニュースが報じています。

「2002年ごろ、宇多田のコンサートを開く権利を無断で藤さんが第三者に売ろうとしたんです。それがきっかけで2人の確執が生まれてしまったようです」(女性誌記者)

藤圭子にしてみればヒカルのためにという思いで行おうとしたことなのでしょうが、現実にはヒカルにとって不利益となることだったのでしょう。

藤圭子が照實氏やヒカルと別れることになったきっかけと考えられる出来事を、芸能関係者の話として2006年11月2日の女性セブンが報じています。

「娘のヒカルが4年前(2002年)に紀里谷さん(紀里谷和明氏・写真家、映画監督)と結婚するときに、ヒカルの個人事務所の役員を外れてほしいと家族に迫られたそうなんです。結局、役員は外れなかったそうですが、“家族からそんなこと言われると思わなかった。それから人間が信じられなくなった”といっていました」

照實氏とヒカルから事務所の副社長を退任してほしいと言われたことは、藤圭子にとって決定的なダメージを受ける出来事であったのでしょう。

ヒカルを歌手にしようと十数年に渡って一所懸命になってやってきたのに、自分の一番身近で信頼すべき家族から退任してほしいと言われたことで、すべてが信用できなくなったのだと思います。

これは藤圭子が患っていたと考えられる境界性パーソナリティ障害の特徴である全てか無か、白か黒かの二極思考のためでしょう。

こういったことから照實氏とヒカルから事務所の役員を退任してほしいと言われたことが、藤圭子がヒカルと別居するようになった原因と考えられます。照實氏とは2000年の離婚騒動以来、別居状態となっていました。

家族が信用できないのですから、ましてや他人が関わっている銀行は藤圭子にとってはもっと信用できないということになります。人間不信になった藤圭子は一般の人からは奇妙と思われる行動をとります。

2013年8月29日のNEWポストセブンから引用します。

「藤さんは人間不信から銀行も信用できず、普段からキティちゃんのバッグに札束をいくつも入れて持ち歩いていたんです」(スポーツ紙記者)

藤圭子がヒカルと別居するようになった原因について、しばしば精神的に不安定になる藤圭子にたまりかねたヒカルから ”出ていって” と言われたからという言説がありますが、これは違うと思います。

藤圭子は照實氏と同居していた時に何度も夫婦喧嘩になり、そのために家を飛び出したことがあった、というのが真相でしょう。

2013年08月24日の東スポWebは、藤圭子がホテル住まいをしていたと伝えています。

ホテル業界に詳しい人物によると「6年ほど前(2007年)までは港区のホテル『X』の1泊数十万円もするスイートルームに住んでいました。ここには宇多田ヒカルさんも別の部屋を借りて、創作活動をしていました」。

藤さんは「X」だけでなく、目黒区にある高級ホテル「Y」にも部屋をキープしていた。ここには宇多田も夫の照實氏も住んでいたという。

藤圭子は、2007年頃から新宿のマンションで若い男性と暮らすようになっていますから、この記事の書いていることとは時期的に合っています。この記事が事実とすれば、藤圭子は別居後にヒカルと同じマンションに住んでいた時期があったことになります。

同居していた男性との関係

2013年のアサ芸プラスが藤圭子のカジノ遊びについて伝えています。

藤はごく近しい芸能関係者には時折、連絡を取っていた。ある芸能プロ幹部が証言する。

「6年ほど前(2007年)のことです。藤は周囲に、こんなことを漏らしていたんです。最近交際している男性とは、関係は順調で『ラスベガスのカジノにも同行してもらっている』と。そしてその理由を聞くと、単なる交際相手という以外に、『自分1人でお金を持ってカジノに行くと、全て使い切ってしまう。だから彼に現金を持たせて使いすぎないようにしている』と言っていたそうです」

自分でギャンブルに使う金額を抑えられないのはギャンブル依存症の特徴です。藤圭子のカジノ遊びに同行した男性は、藤圭子のマンションで同居していた男性と思われます。

この男性について2013年9月1日の週刊実話が伝えています。

同居していたという男性も男女の関係ではなく、藤を心配した照實氏が身の回りの世話をするために付けたマネジャーのような人だったようです。そんな生活の中で心を許せる身内もおらず、孤独で精神的にも不安定になっていったようですね」(女性誌記者)

同じく2013年8月25日の東スポWebも報じています。

「藤圭子さんとは知りませんでしたが、(マンションの)13階に住んでいる女性は普通の主婦っぽくなくて目立ちました。目が少しうつろで、ボ~ッとしているようにも見えました。よく若い男性が手首を引いて『こっち! こっち!』とやっていたので“息子さんかな”と思いました」

 また別の50代女性は「マンションの玄関前で、若い男性が『阿部さん、阿部さん』と呼んでいるのを見たことがある」という。M氏が普段、藤さんを本名の「阿部」で呼んでいたということは、2人が相当近い関係だったとみていいだろう。

2007年頃、藤圭子は目がよく見えなくなっていました。近くは見えるが遠くは見えない状態だったのだと思います。照實氏から依頼された男性は、網膜色素変性症で目が不自由になった藤圭子の足代わりともなっていたのでしょう。

精神科を受診していた藤圭子

照實氏は藤圭子が自殺した時、コメントを発表しましたが、その中で藤圭子が病院の受診を拒否したとして次のように説明しています。

とても辛そうな時が多く見られるようなった際には、病院で診察を受け、適切な治療を受けるよう勧めたことも多々ありましたが、このアドバイスは逆に、僕に対する不信感を抱かせることとなってしまいました。結果、本人が拒絶し続けた治療が成されないまま、彼女の苦しみは年を追うごとに重症化したものと思われます。

しかし藤圭子は自身の症状に悩んでいたのでしょう、一時、精神科を受診していました。2013年9月4日のアサ芸プラスが報じています。

藤は旧知の芸能記者に「久しぶりに日本に帰ってきたけど、話す人がいない。寂しい」と孤独感を吐露していたと報じられている。その記者には「感情を抑えることができない。パニック障害と診断された」と、病名も明かしていたというのだ。

境界性パーソナリティ障害ではあらゆる精神疾患が合併しうるとされています。その意味で藤圭子が自身の症状のすべてを医師に話さなければ、合併しているパニック障害と誤診されたとしても不思議ではないでしょう。

誤診されてパニック障害の治療をしても、境界性パーソナリティ障害の治療をしなければ、その症状が良くなることはありません。

藤圭子はなぜ5年で5億も使うほどギャンブルに熱中したのか

藤圭子は2006年3月6日にケネディ国際空港で約42万ドル、日本円にしておよそ5000万円(当時)の現金を押収されています。そのことがメディアで流され、藤圭子の桁外れの金銭感覚が世間の知るところとなりました。

賭けマージャンに熱中した歌手時代

藤圭子は石原まさをの自宅に住み込みで暮らしていた時に、石坂まさをの母から麻雀を教えられ、度々麻雀を行っています。その当時、お金のなかった藤圭子は負けると賭金を失ってしまうため、絶対負けまいとして真剣になり、麻雀の腕がメキメキ上達したといいます。

デビューしてからも麻雀好きは変わらず、そのことについて歌謡界の重鎮の敏いとうは、2017年10月25日のアサ芸プラスで話しています。

13年に飛び降り自殺した藤圭子(享年62)とも交流はあった。彼女はギャンブルに目がないんだ。依存症と言ってもいい。中でも麻雀が大好きだったね。もう時効だろうから言うけど、サシウマ(特定の一人との順位争い)で50万とか100万という、とんでもないレートで一晩中、賭けていた。しかも昔から彼女は、現金払いじゃないと怒って、いつでもまとまった現金を持っていたからね。晩年にニューヨークの空港で何千万も持ち歩いて没収されたニュースがあったけど、特に驚かなかったな。

依存症と言ってもいいということは、暇ができれば麻雀をおこなっていたということでしょう。藤圭子が無類の麻雀好きだったというエピソードは、藤圭子の友人のカルーセル麻紀も2019年2月14日のTV番組で話しています。

まだ(宇多田ヒカルが)1歳半くらいかな、「麻紀ちゃん、ちょっとお願いがあるの」って。「どうしたの」って聞くと、「ちょっと用事があるの、ヒカル預かってくれない」というの。私、子供嫌いだから、赤ん坊なんて抱いたことないんだから。「お願い」って言われて、「あんた、どこ行くの」って聞いたら。「ごめんなさい、ちょっと麻雀してくるから」って。だから麻雀終わるまで待って。それ2回くらいありましたよ。

あやしている自分の赤ちゃんを人に預けてまで麻雀に興じるとは、敏いとうのいう通り、ギャンブル依存症といっていいでしょう。

カジノで豪遊するようになった理由

2006年のケネディ国際空港での現金没収事件について、藤圭子の訴えを2006年11月2日の女性セブンが報じています。

「藤さんは“今回の件はすべて家族のせいだ”というんです。“旦那も冷たいし、家族とも疎遠になって、ほとんど一緒にいない。寂しいし、ほかにもいろいろあって人間不信になっている。だから現金を持って、好きなギャンブルをして歩いている”と、切々と訴えるんですよ」(藤の知人)

家族から冷たくされたと思い込んだ藤圭子は、強いストレスを受けたと考えられます。そして人間不信から境界性パーソナリティ障害の人に特徴的な空虚感を強く感じるようになったものと思われます。

空虚感はつらい感情です。藤圭子はそれを埋め合わせるために、一時は治まっていた境界性パーソナリティ障害に特徴的な自己破壊的ギャンブルに再びのめり込んだと考えられます。

何億も持っていた藤圭子はギャンブルに賭ける金額も桁外れの大金となりました。そうした行為で大金を失うかもしれないというスリルを感じることで、空虚感からつかの間だけ逃れることができたのでしょう。

2006年の現金没収事件の弁明のために、テレビのインタビューを受けた藤圭子には精神的な不安定さが見られます。これは藤圭子が患っていた境界性パーソナリティ障害の症状が現れていたためだと考えられます。

体調不良を告白

藤圭子は2006年9月のテレビ朝日のインタビューで体調不良を告白しています。2013年8月23日のビジネスジャーナルに記述があります。

本名の「純子」で取材に応じ、「私はもう藤圭子でもなんでもない。封印した」「原因不明ですけど、この20年間、吐きまくりの人生です。週に3回は吐いてる。今でもそう。だからどっか悪いと思うんだけど」と体調不良を告白している。「24時間、頭が痛いし、24時間、口の中が風邪をひいた時みたいに38度の熱があるし。体中痛いですね。それから寝られない」などと次々と症状を訴え、精神的にも肉体的にもバランスを崩していたようだ。

境界性パーソナリティ障害の人が感じる空虚は、肉体的な痛みを引き起こす場合があります。藤圭子の体中の痛みは、境界性パーソナリティ障害の症状かもしれません。あるいはストレスが原因で痛みが起こる身体症状障害の可能性もあります。不眠は境界性パーソナリティ障害ではよく見られる症状です。発熱や嘔吐はストレスで起きる心因性の可能性があります。

境界性パーソナリティ障害は、人とのつながりを求めずにはいられない疾患です。藤圭子は家族との絆が絶たれ、孤独でストレスフルな状況にあったのでしょう。

藤圭子に生きることを教えてくれた宇多田ヒカルの存在

藤圭子は1993年にU3名義でアルバム「STAR」をリリースしています。同アルバムは主に藤圭子に関するエピソードや思いを曲にしています。

アルバムタイトルになっている「STAR」という藤圭子 作詞、藤圭子・照實氏 作曲の曲の歌詞は次のようになっています。

 子供と笑うあなたの
 写真を見たわ、雑誌で
 思い出はあの頃の
 無名のあなたと
 肩をならべた私
 アルバムの写真に

*あなたはSTAR
 私はただの
 優しい妻になりたいと
 夢を語り合った

 笑顔の似合うSTAR
 スクリーンの中で
 そうよ、あの日のあなた
 些細なことで
 住所も告げず
 別れたバカな女には
 一人がよく似合う

*REPEAT

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この歌詞での妻は藤圭子、あなたは照實氏と考えられます。STARとは照實氏を意味しているようです。藤圭子は照實氏を最高に理想化して将来のSTARと呼んでいるのでしょう。この曲とは逆に照實氏が藤圭子に語りかける形の藤圭子 作詞・作曲の「愛しているよ、あの日の君を」も収められています。

このアルバムの作成時期の藤圭子の精神状態は、照實氏を理想化してアルバムを制作したのですから、比較的安定していたことがうかがわれます。

このアルバムには当時10歳だった宇多田ヒカルが作詞・歌唱を行った「THANK YOU」も収められています。この曲の作詞には藤圭子も関わっています。

このアルバムで注目されるのが藤圭子 作詞、藤圭子・照實氏 作曲の「生きることを教えてくれた」です。この曲の歌詞は次のようになっています。

 荒れ果てた町
 凍りついた心
 夢も希望も両親(おや)さえもなくした

 たたずむ私に
 小さな瞳が笑う
 小さな手をひろげて
 大空をつかむかのように

 そうよ小さな
 あなたを抱きしめて
 生きて来たのよ
 生きることを教えてくれた

 月日は流れる
 同じあやまち何度も
 繰り返さないように
 見守っていてほしいの

*いつも心に
 愛だけを抱きしめ
 生きてきたのよ
 生きることを教えてくれた

* REPEAT


藤圭子 生きることを教えてくれた

この歌詞で「夢も希望も両親(おや)さえもなくした」というフレーズは、1990年頃に母親と絶縁したことを指していると考えられます。父親とはその前から絶縁していたのでしょう。

1988年に藤圭子は、母親がギャラを着服していたこと、母の目が実際には見えていたことを知り、歌手になったことも含めて長年母のために尽くしてきたことが裏切られたことを知って、精神的にひどい危機状態に陥っています。一時は精神科病棟に強制入院されていたこともありました。

母親に裏切られたと知った藤圭子は、この歌詞の通り、生きる希望を無くし、死ぬことさえも考えたのでしょう。そうした危機を救ってくれたのが当時5歳だったヒカルの存在です。藤圭子はヒカルのために生きることで、生きる希望を得られたのだと解釈できます。

「月日は流れる 同じあやまち何度も 繰り返さないように 見守っていてほしいの」という歌詞は、藤圭子と照實氏が夫婦喧嘩の末に離婚してしまうことを、当時10歳のヒカルに止めてほしいという意味のようです。

大下英治著の「悲しき歌姫」には、ヒカルが3歳の時に藤圭子が離婚届を出す段になって、ヒカルから「パパとお母さん、別れちゃ、イヤだ」と言われて離婚を思いとどまったというエピソードがあります。

藤圭子と照實氏は離婚届を出さなかったものも含めて13回も離婚や、離婚の危機がありました。藤圭子からそうした何度も離婚になりそうな時にヒカルに止める役をやってほしいというのは、ヒカルにとっては迷惑以外のなにものでもなかったでしょう。

このアルバムには藤圭子 作詞・作曲の「やり直せる人生」という曲もあります。その1番の歌詞は次のようになっています。

 私達の人生
 やり直せる人生
 歌おう
 笑おう
 悩んだ後は
 もう一度爽やかに
 もう一度穏やかに
 まだやり直せる人生

この歌詞は、何度もあったという離婚騒動を題材にして、そこからの立ち直りをテーマとしていると受け取れます。

アルバム「STAR」には、このようにプライベートで藤圭子、照實氏、ヒカルについて実際にあったことや希望を描写した曲が多くあります。