”当確” のはずの紅白復帰ならず ダウンした藤圭子

藤圭子は紅白出場に異常ともいえるほどの執着をもっていたエピソードがあります。

「流星ひとつ」で、1973年の紅白に選ばれなかったとき、藤圭子が、NHKは藤圭子を必要としていないのだから来年のNHKに出るのはやめようとマネージャーに迫ったと話しています。しかしマネージャーが同意してくれなかったので ”爆発” したといいます。”爆発”というのは ”暴れた” というほどの意味でしょうか。

藤圭子の論理はなんとも幼稚です。藤圭子が主張したのは、言ってみれば、NHKに冷たくされたので、逆にNHKを困らせてやろうということです。すねています。プロ意識のある歌手であれば、一旦はがっかりはしても、来年こそは選ばれるように実績をあげようと気持ちを切り替えるはずですが。

「流星ひとつ」では、紅白自体にはなんの魅力も感じなかったと話していますが、本当に紅白出場に何のこだわりもないのであれば、選ばれなかったからといって、自分の歌手活動に大きなマイナスの結果となる、NHKを困らせるようなことをやろうとするのは矛盾しています。

藤圭子は本心では紅白に出たくでしかたがなかったことは明らかです。紅白に出場するということは歌手として一流であるということのお墨付きをもらったと同じことでしょう。連続出場を果たしていながらその選考にもれたことは、藤圭子にとって大きなショックであろうことは想像に難くありません。

ですがそうだからといって ”すねて” しまっては話になりません。藤圭子がやろうとしたことはプロらしくないどころか子供っぽいです。こうした藤圭子の言動も普通の藤圭子ファンからすれば ”純粋な心” と受け止められ、理想化されるのでしょうか。

このブログは藤圭子を過剰に理想化することが目的ではありませんので、事実をありのままに記述するようにしています。

連続出場が途切れた翌年の1974年に、藤圭子は『命火』で紅白復帰に賭けています。1974年7月発行のサンデー毎日から引用します。

もう一度燃やすか藤圭子の ”命火”

「とどのつまり、藤圭子はどうなっちまったんだ?」という声が、若者の間で上がりつづけていたのは、藤が70年前後、若者たちの心情的アイドルになって、怨念のスターになっていたせいだった。

ところが、イメージと本人の生き方とは、大いにズレができて、クールファイブの前川清とママゴトみたいな結婚ごっこ、離婚ごっこをやったり、父親にテレビで「銭よこせ」とさけばれたり……。まるでパットしないまま、声はしわがれ、低迷すればするほど、テレビに出てきて、愛想よくニコニコしたり……。

「長いこと、藤は藤でなさすぎました。大いに反省します」と、そのへんのニュアンス、腹にこたえて巻き返す気になったのが、彼女の育ての親で、作詞家の石坂まさをである。結局は藤圭子、用意された新曲が『命火』というやつである。
 (中略)
”演歌の星の下に生まれた宿命の少女” も、7月5日の誕生日で22歳になるとかで、キャッチフレーズ好きのスタッフがつけた今度の看板は、ズバリと「新生・藤圭子」で、レコーディングのスタジオに、幕を張りめぐらせ、かがり火をたいたりして、大騒ぎだ。

1974年8月25日発売で、起死回生を込めた ”命火” でしたが、オリコン最高34位、7万枚足らずしか売れませんでした。しかし、週刊誌などでは ”紅白当確” と報道されており、事務所も当選間違いなしと判断していました。1974年12月発行の週刊明星から抜粋して引用します。

ところが午後3時過ぎ事務所から圭子にかかってきた電話は意外にも、「残念ながら、”紅白” は落ちた」

一瞬の沈黙があったが彼女は取り乱すふうもなく「そうですか、わかりました。(略)残念といえばほんとうに残念です。今年は自分でも一生懸命がんばって、『命火』をみなさんがあれだけ推してくださったのに…。でも認めてもらえなかったのね」

最後は消え入るような声になって電話を切った。

とたんに激しいショックが、あらためて圭子を襲った。”紅白” に落ちた! 全身の血が逆流するように圭子は茫然自失した。やっとの思いで、よろけるように自分の部屋に入ると、ドアを閉めて突っ伏したままだった。

ようすを知って驚いたお母さんが、すぐ事務所へ連絡。往診を頼んだ医師が訪れたとき、圭子はぞくぞく寒気がする身体で、ベッドに横たわっていた。

翌11月21日と22日に予定されていた中国地方の公演は直前でキャンセルとなり、藤圭子は27日まで仕事を休んでいます。公演をドタキャンしたため、一時は失踪説が流れたと当時の週刊平凡にあります。

再起を賭けた ”命火” ですが、大ヒットしたかつての ”不幸路線” を継承するものであり、新しさはなく、すでに大歌手となって莫大な金額を稼いでいる藤圭子には似合わなくなっていました。

この紅白落選で、藤圭子は石坂まさをに見切りをつけ、沢ノ井事務所の佐々木社長に「石坂先生とはもう仕事をしたくない」と申し入れ、同事務所から離れることになります。1974年12月発行の週刊明星から石坂まさをの発言を引用します。

「タレントがそういうなら、別れるよりしょうがありませんな」と、石坂氏は感情を押し殺して言う。

「紅白にカムバックさせたい、レコード大賞でもどれかの部門に食い込ませたいということで、費用を惜しまず『命火』に賭けたんですが、結果としてはどっちもだめだった。あるいはプロモートに失敗があったのかもしれないが、沢ノ井事務所には藤圭子以外にタレントがいるわけではないから、社員全員が彼女ひとりのためにがんばったんですよ。それにもかかわらず彼女が、紅白に落ちたからといって、仕事に穴をあけるようなことをしたのは、彼女を育てた私の責任とはいえ、たいへん残念です」

沢ノ井事務所を離れた藤圭子は新栄プロダクションに移り、新しい作詞家、作曲家の作品を歌いますが、これといったヒットが生まれることはありませんでした。最もヒットしたのは1975年のはしご酒で、オリコン最高43位、11万枚です。これ以外はほとんどが1万枚前後と惨憺たる結果となっています。1977年には再び石坂まさを作詞で2つの作品を出していますが、まったくといっていいほど売れませんでした。

すでに時代が変わっており、その時代の波に藤圭子が再び乗ることはありませんでした。

いちばん親しい22人が語る藤圭子のもうひとつの顔

1970年8月発行の明星に掲載された記事 ”いちばん親しい22人が語る藤圭子のもうひとつの顔” から抜粋して掲載します。

 

にくいほど手のかからん子じゃった 祖母 竹山ヨキさん

 とにかく小さいときからしっかりした子でしたのう。
 純子(圭子の本名 阿部純子)の母が、よく夫婦ゲンカをして札幌の私のところへやってくることがあったけれど、そんなときいつもあの子がついて来たもんじゃった。
 母親がカッカしていても、涙ひとつこぼすわけじゃなく、自分の孫ながら頼もしいと思いましたわ。
 まあ、犬も食わない夫婦ゲンカのことじゃから、1日か2日もすれば旭川へ帰って行くんじゃが、純子は自分の帰りじたくはさっさとしてしまって、「おかあちゃん、忘れ物ない?」なんて、反対に母親の世話を焼いておったほどじゃ。ほんとににくらしいほど手間がかからない子じゃった。
 といっても、ヘンにこまっしゃくれたところがなく、無邪気でとってもかわいいんじゃ。
 そうそう、いちど純子が見えなくなって大騒ぎしたことがありました。
 あの子は人なつっこいもんじゃから、うちの前の川っぷちであそんでいるうちに、どこかの子と友だちになってついていっちゃったんじゃね。そのうちに警察から電話があって、保護しているから引き取りに来いって …… ヤレヤレと思いましたわ。
 純子が世話をやかせたといえば、そのときぐらいですなあ。

 

小学校6年までオッパイを吸っていました 母 阿部澄子さん

 あの子がおなかにいるときは、とても大きくて、心臓の音も強く、お産婆さんが「ぜったい男の子」と言っていたくらいなんです。
 生まれてからもしっかりしていて、知恵のつくのも早かったですね。8ヶ月でもうちゃんとオシッコを教えたんですよ。
 それでいながらひどくあまったれでしてね。これを言うとあの子におこられるんですが、小学校6年ごろまで、私のオッパイを吸っていました。
 学校から帰ってくると、すうっと私の後ろにまわってきて、あまえ声を出しながら、私のフトコロヘ手をすべりこませるんです。
 ところが、それをある日、姉のふみえが見つけまして、「お友だちみんなに言いふらしてやるわ」なんてひやかしたもんですから、純子は真っ赤になってしまいましてね。
「言わないで」「言っちゃう」って、ふたりで家の中を追っかけっこするやら、たいへんな騒ぎをしたのを覚えていますよ。
 私が目が不自由になってからは、あの子がツエがわりになってくれました。ずいぶんつらいことが多かったでしょうに、グチひとつ言わないで ……。
 あの子の歌を聞いていると、よくここまでがんばってくれたと、いつも思わず涙ぐんでしまいます。

 

キセルでなぐっても泣かない子だった 父 阿部壮さん

 私は子どもにはきびしいほうでしてね。いたずらなんかすると、ようしゃなくなぐりつけたものです。
 それなのに純子ばかりは、あまりしかりつけた記憶がないんです。それだけおとなし子こだったんでしょうな。
 たったいちどだけ、なにかのことで私が腹を立てて、あの子の手をキセルでぴしっとやったことがあります。
 ところが純子は、なぐられても泣かないんですな。ただ大きな目でじっと私を見つめているんです。ガマン強いのか、強情なのか ……。
 あんまり見つめられると、おこったこっちのほうが目のやり場がなくなって、困ってしまったもんです。
 まあ、そういう子でしたな、小さいころは……。

 

カチカチの優等生でした 神居中学の先生 堤尚美さん

 たいへん成績のいい子でクラスの副委員長をずっとやっていました。学級会でも積極的に発言していたようです。
 学校では原則としてアルバイトをみとめないのですが、阿部クンは「私が歌わないと家で困るんです」と、はっきり言って許可を求めてきました。
 しかしふだんは、ハデな面を少しも見せない、つつましい態度でした。
 2年のとき、弁論大会に出て、「困難に打ち勝とう」という題で優勝しました。やはり自分自身が困難にうち勝ってきたから迫力があったんでしょうね。

 

買い物はお母さんの好物ばかり スーパーのおばさん 高橋ゆり子さん

 うちの店は純ちゃんの家のすぐ近所で、夏休みや冬休みには、アルバイトに店を手伝ってもらったんですよ。
 いつもハナ歌を歌ってる明るい子でね、配達なんか頼むと、どんな重いものでも平気で引き受けてくれました。
 アルバイト料は1日300円なんですが、そのお金で帰りにはおかあさんの好きなおさしみなんかを買っていきましたね。自分は1円だって使おうとはしないんです。

 

作詞にも才能がありますね スカウトした作曲家 八洲秀章さん

 42年の2月に、北海道岩見沢雪祭りに出かけて、そこで藤クンに会ったんです。
 ちょうど東京の歌手が来られなくなって、当時中学3年だった彼女が急遽かわりに起用されたんですな。ところがその出来がすばらしく、なんどもアンコールがかかったほどです。
 それで、私が東京に出てくるようにすすめたわけです。
 これはあまり知られていないのですが、上京後、デビューする前に、彼女が島純子という名まえでソノ・シートを吹き込んだことがあるんです。彼女自身が作詞して、私が作曲した「男の仁義」という歌ですが、この歌詞は構成もしっかりしていて、ほとんど手を入れる必要がなかったほどです。
 作詞というのは、彼女のかくれた才能のひとつでしょうな。

 

よくぶんなぐったものですよ 藤プロ専務 沢の井竜二さん

 彼女をぼくの手もとに引きとってからデビューするまで、ずいぶんとシゴいたもんだ。
 ぼくはいささか女をバカにする傾向があるんで、曲のことで意見がぶつかったりすると、ついぶんなぐっちゃうんだな。彼女はワンワン泣きながら出て行っちゃう。でも、朝になってみるとちゃんと帰って寝ているんだな。オレも変わっているけど、彼女もそうとうなもんだよ。

 

アレンジにすぐ文句をつけるんだ ディレクター 榎本襄さん

 彼女の最初のレコーディングのときはおかしかったなあ。テストをはじめようとすると「恥ずかしいからスタジオの電気を消して」って言うんだよ。
 そのくせ、ヘンにず太いところがあって、一流の先生の編曲を「このアレンジ気にいらないわ」なんて平気で言う。それがぜんぜん憎めないんだなあ。
 それでぼくも笑いながら「君もイチニンマエの口をきくね」って言うと、いきなり蹴とばされました。ぼくも長いことこの商売やってるけど、デビュー前の新人に蹴とばされたのは、あのときだけですねえ。

じゅんペイは私のお母さんの水着で泳いでいたわ "流し” の友だち 坂井寿子さん

 3年前のもう冬に近いころ…11月だったと思うけどアタシが錦糸町であそんでいると、よれよれの夏服を着た女の子の流しに会ったの。アタシ、思わず「なんでそんなきたないカッコウしてんのよ」って声をかけたら、「カッコウなんてどうでもいいじゃない」ってその子ヘッチャラなのよ。それがジュンペイ(圭子のこと)だったわけ。
 それ以来、アタシたちすっかり仲よくなっちゃってしょっちゅういっしょにいたわ。ジュンペイがノド痛めて声が出なくなったとき、アタシがかわりに歌ったこともあったな。アタシのほうがチップが多いもんだから、あの子すっかりムクレちゃったりしてね……。
 あの子ったら、着がえをろくに持ってないで、仕事から帰ると、着てるもの全部ぬいで洗たく機に入れちゃうの。それもいいけど、スリップからぬいぐるみの人形までいっしょに放りこんじゃうんだもの、あきれちゃった。
 ふたりでゴーゴーに行ったり、プールへ泳ぎに行ったりもしたわ。だけどジュンペイは水着がないもんだから、アタシの母の水着を借りて行くの。それがダブダブでとても見られたもんじゃないんだけど、ジュンペイは堂どうとプール・サイドを歩くんだもん、アタシのほうが恥ずかしくて逃げ出したくなっちゃった。

 

きたないカッコウだったぜ…… TVディレクター 千秋与四夫さん

去年の8月、デビュー前の藤クンがフジTVに売り込みに来たことがあるんだ。これがきたないカッコウでね。これが女の子かと思ったよ。しかも、部屋にはいってくるなり、人がたくさんいるのに「私の歌を聞いてください」って、いきなり歌いだしたんだ。それが「新宿の女」さ。まわりの連中はびっくりしたけど、まあ、あれくらいの根性の持ち主だからりっぱなスターになれたんだなあ。

 

酔っぱらったボクといっしょに歌ってくれたね 大ファン・まんが家 赤塚不二夫

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赤塚不二夫藤圭子

ぼくはケイコちゃんの先生の沢ノ井さんと友だちで、デビュー前から彼女を知っているのだ。ぼくも家がひどい貧乏で境遇がよく似ているのだ。
 去年の暮、ぼくはある忘年会ですっかり酔っぱらって、彼女に「すぐ出てこい」なんて電話したのだ。そしたら、いやな顔もしないで飛んできて、いっしょに「新宿の女」を歌ってくれたのだ。マンガ家多しといえども藤圭子といっしょに歌ったのはぼくだけだぞ、ニャロメ!
 以来ますますぼくは藤圭子の大ファンになったのだ。

 

歌手をやめる話ばかりしているよ 心の友だち 前川清さん

 会社(RCAレコード)が同じせいで、ショーなどにはお互いに花束を送ったりする機会が多く、仲よくなりました。ぼくより年下ですが、話し方はすっかりオトナって感じですね。
 ボクとしては、いまでは芸能界で心を打ちわって話せるただひとりの歌手といっていいくらいです。
 困ることは、彼女としゃべっていると「歌手なんてしんどい商売早くやめたいね」というような話についなっちゃうことです。それだけ気がおけないということなんでしょうが……。

 

オヘソを出したまま人前に出ないでね 姉 内藤富美恵さん

 今年の3月にとつぎましたがよく純子の部屋に行っては世話をやいています。あの子はなりふりあまりかまいませんが、それだけでなく人前で平気で着がえたり、男の記者のかたが見えたときオヘソを出したまま出ていったりするので困ります。
 これからはそういう社会人としての常識をもっと身につけ、それから健康に注意して、立派な歌手になってほしい。それが姉としての私の願いです。

ヒカルのデビューを機に再起しようとしていた藤圭子

藤圭子宇多田ヒカルのデビューに一所懸命だったことはよく知られていますが、ヒカルとともに自身も心機一転新しく歌手として再起したがっていたという点に関してはあまり知られていないようです。

藤圭子は、宇多田ヒカルがデビューする1998年暮れまでの間に、多くのロック曲を発表しています。U3名義で発表した1993年のアルバム『STAR』は全曲がロックで占められていますし、1996年9月の『冷たい月-泣かないで』も本格的なロックです。

1997年4月6日 NHK『ときめき夢サウンド』のステージで、ビートルズ・ロックンロール・メドレーを歌っている動画があります。


藤圭子 ビートルズ・ロックンロール・メドレー 共演:尾藤イサオ・白井貴子

同時に同じステージと思われる音源で、ナンシー・シナトラの『 These Boots Are Made for Walkin'』をソロで歌っている次の音源もYouTubeにあります。


These boots are made for walkin' / 藤圭子

藤圭子は1990年に照實氏と宇多田ヒカルを加えた音楽ユニットU3を結成し、米国に拠点を構えてロック調のアルバム制作を行いますが、それにはヒカルを世界に通用する歌手に育てるという目的もありました。

そのための活動資金稼ぎのために日本でドサ回りをしていました。TV番組に出演するのは、それほど稼げるわけではありませんが、人々の知名度を上げられるので、TVで知名度を上げればドサ回りでも人が集まるということなのでしょう。

TVのステージでは『圭子の夢夜ひらく』や『新宿の女』をうれしそうに歌っている動画もありますが、目的はあくまでもドサ回りでの人集めにあったものと思われます。

おそらく藤圭子自身は、懐メロ番組では『圭子の夢夜ひらく』や『新宿の女』を楽しんで歌ってはいないと思います。完全に米国での音楽活動資金稼ぎのためという目的を達成するために、ビジネスライクに徹していたのだと思います。

その一方で、YouTubeには『圭子の夢は夜ひらく』をジャズアレンジで歌っている動画が3つあります。次の動画はそのうちの一つです。いつのステージかは不明ですが、藤圭子は『圭子の夢は夜ひらく』を懐メロとしてではなく、新しい魅力ある曲として歌っています。ですがこうしたアレンジが一般に受け入れられるかどうかはまた別の問題です。


藤圭子♥圭子の夢は夜ひらく(紅白歌のベストテン)

こうしたことを考えると、藤圭子はそれまでの "演歌歌手" としてではなく、ロックもポップスも歌える『歌手・藤圭子』として新しく再起したいと考えていたものと思われます。

ですがその前途に大きな障害が立ち塞がります。それがヒカルの大ブレークです。

ヒカル人気があまりにも過熱しすぎたため、ヒカルのライバル勢力(音楽事務所やレコード会社など)は、なんとしてもスキャンダルなどで、ヒカル人気に水を指したいと考えていたはずです。

また藤圭子など演歌歌手の興行で影響力のあった暴力団が、藤圭子の再起にかこつけて莫大な金額を稼ぐ宇多田ヒカルの利権に食い込みたいと考えていたとしても不思議ではありません。

このような周囲の状況で、藤圭子が再び歌を歌うことになれば、昔から付き合いのあった暴力団から声がかかり。断りきれずに暴力団の収入源に利用される結果となることは想像に難くありません。当時の状況でそのことが明らかになればそれこそスキャンダルです。

それは宇多田ヒカルにとってもスキャンダルになるものです。そうしたことから藤圭子は新しく再起する夢を捨てて、宇多田ヒカルを守る道を選んだのでしょう。

2014年6月5日のLITELAは次の記事を掲載しています。

「実際、藤は一時、ヒカルのブレイクを契機に歌手として再起したがっていたようです。それを全力で周りが阻止していた状態だったと聞いています」(スポーツ紙記者)

このスポーツ紙記者というのは、スポニチの圭子番である阿部記者のことでしょう。彼は藤圭子からの信頼が厚く、その記事には信用が置けます。

藤圭子は、それまでの ”懐メロ歌手” としてではなく、ロックやポップス歌手としてどうしても出直したかったのでしょう。ですが、結局周りからの強い説得を受け入れ、宇多田ヒカルのデビューと同時に藤圭子がステージで歌うことは事実上なくなりました。

当時の藤圭子の言葉によれば、藤圭子を自ら『封印』したということになります。そのことで藤圭子は『歌手』という数少ない重要なアイデンティティを失うことになってしまいました。歌手でなくなった藤圭子には、確かなアイデンティティは残されていませんでした。

後からどうこう言っても始まりませんが、歌手を続けていられれば、自殺にまで追い込まれることはなかったと思います。

 

五味康祐から ”絶望的手相” と宣告された 藤圭子

手相などというものは非科学的でおよそ信用ならないというのが私の見解ですが、今回の記事は当時の藤圭子の、今後の男女関係を暗示しているような記事ですので、取り上げてみます。

週刊平凡 1975年7月10日号から抜粋して引用します。

作家の五味康祐さんの手相占いはTBS『モーニング・ジャンボ』のうりものの一つだ。

毎週、違ったタレントが登場して、五味さんの歯に衣着せぬ占いに、ハラハラしたり、ニヤニヤするところが楽しい。6月23日のゲストは歌手の藤圭子だった。例によって、五味先生が、手相が描かれた大きなパネルに、藤の手相を見ながら、線を引こうとしたとき、ハプニングが起きた。藤の手相を一見した五味さんがこういいだしたのである。

「どうも、わしはこの子の手相は占いたくないなあ」

スタジオ中が一瞬ハッと息をのむのがわかった。常識的に考えて、けっこうな手相なら、五味さんが口ごもるわけがない。

藤の顔がみるみる紙のように白くなった。

「どうしてですか」

たまりかねたように、司会の鈴木治彦アナが口をはさんだ。

「とにかく、この子の手相はメチャメチャなんだよ。運命線にしても、生命線にしても・・・。男運も悪いしなあ、(と、藤に向かい)前の男だって、きみをあまり楽しませてくれなかっただろう?」

確かに藤圭子の男運としては、わずか1年で終わった前川清との結婚生活、音楽グループのボーカルとの同棲の破綻、阪神の小林繁投手との不倫関係の破綻、作家の沢木耕太郎とのこれも不倫関係の破綻、そして極めつけは照實氏との間で繰り返した6、7回の離婚・再婚、とくれば、五味康祐の言う通りかもしれません。しかし、”メチャメチャな手相” という言い方は、これ以上ないくらいにショッキングな表現というしかありません。

続けて引用します。

では五味さんは藤の手相の中に、どんな不吉な運命を見たのか?

「ま、芸能人の中に、まま見受けられる手相ではあるがね。それが藤くんの場合はひじょうに極端なんだよ。異性関係から、生活環境、もしかすると健康上の問題まで、いいところがひとつもない。とくに異性関係は複雑なようだね。でも、これは本人にいうことで、第三者にはいえないなあ」

藤圭子のその後の人生を思うと、五味康祐の述べていることは、そのまま当てはまっていると思えてきます。一方で藤圭子はどう思っていたのでしょうか。

 

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取材に答える藤圭子

続けて引用します。

話題の手相の件を持ち出すと、口に手を当てて笑った。

「あら、先生はそんなにきついこといわなかったわよ。そりゃ私だって女だもの、長い人生の間には悪い男に会うことだってあるでしょ。女である以上、だれだって、男におぼれる時期ってあるんじゃないかしら。だから私は当然のことをいわれたんだと思って、べつに気にしていないの」

うーん、これは藤圭子の本心でしょうか。ここで藤圭子が話していることと、五味康祐がスタジオで話したこととの間にはかなりの乖離があるようです。現実に藤圭子はその後に波乱万丈の男女関係を繰り広げ、最後には自殺していますから、五味康祐の手相占いは正確だったといえるかもしれません。

宇多田ヒカル『Letters』での『君』や『あなた』は 母・藤圭子

宇多田ヒカルには母・藤圭子との関係をテーマにした曲が多くあることはよく知られています。2016年に発表したアルバム『Fantôme』は亡くなった母へ捧げたアルバムですから、藤圭子に関わりのある曲が多いのは当然ですし、シングル『嵐の女神』には歌詞で「お母さん」と呼びかけています。

ファーストアルバムには見られなかったこうした曲が表れるようになるのは2枚目のアルバムからです。一見普通の男女関係がテーマのように見えて、実は幼少からの母との関係を描写したものが数多くあります。

中でも2002年発表の3枚目のアルバムに収められた『Letters』は、その歌詞が明らかに宇多田ヒカルが幼い頃の母・藤圭子との関係をうかがわせる内容となっています。

宇多田ヒカルの『Letters』での『君』や『あなた』とは 母・藤圭子のことなのです。

 両手に空を 胸に嵐を
 君にお別れを
 この海辺に残されていたのは
 いつも置き手紙
 夢の中でも 電話越しでも
 声を聞きたいよ
 言葉交わすのが苦手な君は
 いつも置き手紙

大下英治著『悲しき歌姫』には次のようにあります。

藤圭子の育ての親、作詞家の石坂まさをが証言する。
「光ちゃんがもう少し大きくなってからだけど、圭子が地方公演で家を留守にするとあの子がひどく寂しがって、お母さんがいないと寂しい、と手紙を書いてよこすらしいんだ。ママのことが大好きで甘えたくてたまらないんだな。だから、藤圭子が地方に出かけるときは泊まっても一泊まで。強行スケジュールで無理をしてでも帰るようにしていたね」

 花に名前を 星に願いを
 私にあなたを
 この窓辺に飾られていたのは
 いつも置き手紙
 少しだけでも
 シャツの上でも
 君に触れたいよ
 憶えている最後の一行は
 「必ず帰るよ」

1999年刊行の石坂まさを著『宇多田ヒカル 母娘(おやこ)物語』で、藤圭子が、ヒカルがいかに歌の天才であるかを売り込みに訪れた場面を、石坂まさをはこう書いています。

… 純ちゃんはヒカルちゃんに目を向けさせたいと僕に一枚の便箋を取り出し、
「これヒカルからの手紙なのよ」
と言って見せた。便箋の中には、
「ママ、どうしてお仕事に行くの、ヒカルさびしいの」
とたどたどしいヒカルちゃんの字が、二行だけ淋しく泣いていた。

 安らぐ場所を 夢に続きを
 君に「おかえり」を
 この世界のどこかから私も
 送り続けるよ
 夢の中でも 電話越しでも
 声を聞きたいよ
 言葉交わすのが苦手なら
 今度急にいなくなる時は
 何もいらないよ

1999年4月20日号の週刊女性に、ヒカルが幼い頃の藤圭子について石坂まさをが次にように語っています。

「当時、テレビで共演したときに、番組が終わるやいなや、帰り支度を始めるんですよ。 ”ヒカルが待ってんのよ” って」

藤圭子がヒカルを愛情を持って育てようとしていたことは明らかです。おそらく仕事で一泊するような時は、ヒカルに前もって話すのではなく、置き手紙にしていたのでしょう。どうして前もって話しておかないのかといえば、いなくなると話すとヒカルが泣き出してしまい、そのことで自分がつらくなるからだと思われます。

藤圭子が幼いヒカルの泣く姿を見たくなかったというエピソードはヒカル自身が2009年の自著『点-ten-』で書いています。ヒカルが5、6歳の頃にゲームで負けたり、ピアノがうまく弾けなかったりで悔しくて泣くと、なぜか藤圭子までが泣いて、泣くなと責められたので泣けなくなったといいます。


宇多田ヒカル - Letters

藤圭子は幼いヒカルと自分とを同一視してしまう場合があったのだと思います。藤圭子は泣いている幼いヒカルの姿に、幼い自分が父親に殴られて泣いている姿を見てしまい、つらくなるのでしょう。ですから泣く姿を見ないで済むように置き手紙にしたのだと思われます。ですが幼いヒカルにとっては前もって話してもらったほうがいいはずです。